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[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

ドアの向こうに朴正熙がいた(4)

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4 帰還

 翌朝九時すぎ。Y領事のアシスタントのKさんからの電話があった。生きているかどうかの確認だ。ああ、生きてるよ。
「元気です。外には誰もいないらしい。監視はいないと思います」と答える。
「よかったですね。でも気をつけてください」
「あしたの飛行機かあさってのフェリーで帰ることにします」
「それがいいですね。気をつけて」
「ありがとう」
 十時。JALのオフィスに行こうとホテルを出た。
 しかしいくらも行かないうちに、釜山駅のちかくで尾行者の存在に気がついてしまった。背広姿の大柄な男だった。やってはならないと思いながらも、尾行者かどうか確認したい誘惑に負けてゲームを試みる。そのゲームのルールは実に簡単だ。晋州の町の南江にかかる橋の上で試みたと同様、通常ならあり得ないルートをたどってみるのだ。正方形の街路を四回曲がってなおもついてくる者がいれば、そいつは間違いなく尾行者である…それと同じやり方だ。尾行者であることが確認できたとしたら、重い鎖をくくりつけられて町を行くような気分から逃れられなくなるのは分かっている。しかし、それでも知らないままではいられない奇妙な衝動が巣食っていた。
 近くに歩道橋があったので急に方向を変えて歩道橋に上り、ちょうど中央のあたりに立ち止まっててすりにもたれ、眼下を流れる車を見ているようなふりをする。尾行者がわたしの妄想であったなら、その大柄な背広の男はそのまま歩いて行って繁華街の人ごみに紛れるはずだ。しかしわたしはまたしてもゲームに勝ってしまった。男が歩道橋に上がってくることはなかったが、歩道橋の階段の下に隠れるようにして監視をつづけたのである。重苦しい霧が降りてきて周囲を包んだ。もうどこに行っても逃れることはできない。完壁な監視下にわたしはあり、何らかの決定が下された途端に彼らは飛びかかってくるにちがいない。
 それから懸命にJALのオフィスを探したが、しかし聞くひとごとに言うことがちがうのだった。結局、途中で見つけたK航空のオフィスに飛び込んだ。発券カウンターに座るか座らないかのうちに大柄な背広の男がオフィスに姿を現した。わたしと目を合わせようとはしなかったが、もはやどうどうと姿を見せはじめたのだ。これは恐らく威嚇であり、退去の要求なのだろう。でなければ、なんらかの訓練の標的に使われているのかも知れないとさえ思えた。オフィスの公衆電話からY領事に電話して事情を説明すると、「すぐ帰ったほうがいいね」という返事だった。もちろん同感だ。カウンターにつくと応対に出た男の職員に当日の便の予約を申し出た。
 「きょう、なるべく早い便がほしいんですが」
 「どこまでですか」
 「福岡まで、ひとり、エコノミークラスです」
 「はい…ありました。午後三時二十分。いいですか」
 「もちろん!」
 「…あなた、英語うまいですね。仕事は××関係ですってね」
 「…」
 おだやかな口調からは恫喝も揶揄も読みとることはできなかったが、たしかに彼は情報による威嚇を試みているのだった。
 航空券を手に入れると歩いてホテルまでもどった。正午をすこしすぎていた。その五分後には荷物を手に持って宿の外に立っていた。タクシーに乗って金海空港にむかうわたしを、背広の男が運転する車が追尾しはじめたのはもちろんだった。
 金海空港、午後一時。尾行の男もどこかにいるはずだ。この状況では出国できるかどうかは神のみぞ知る、だ。
 午後一時四十五分、チェックインカウンター。係の男は航空券とパスポートをチェックしながら、顔を上げずにさりげない口調でゆっくりと言った。英語だった。
 「晋州に行きましたか」
 「…ええ」
 「帰りのバスの座席番号、十五番でしたね」
 「そうです」
 チェックインはそうして無事に済んだ。
 「これであとはイミグレーションですか?」
 わたしが尋ねると彼は日本語で言った。「いろいろむずかしいことありましたが、もう大丈夫です。また来てクダサイ」

 金海空港から福岡までは水平飛行をしている暇がないほどの距離だった。ほんの三十分後の午後四時には日本にいた。
 福岡空港ロビーのひとごみの中で、しかしなにか空虚な気分だった。不安は消えたがうれしくもない。やっと帰って来れたとか、もう大丈夫という気分でもない。肉体の緊張はゆるんでいないし、精神の緊張も解けていない。安全な母国にもどってきたのに精神と肉体は身構えたままでいる。自分のいる場所に違和感があった。まわりのだれも監視と密告におびえてはいない。日常生活のささやかな喜怒哀楽が、ちょっと前までのわたしのように、かれらの日常を彩っている。だが妄想であったとしても、意識のなかではわたしひとりが尾行者に空港ロビーのどこからか見られている気がした。福岡をすぐにでも離れたかった。
 その日は新幹線で広島まで行き、駅前のビジネスホテルに泊まった。ホテルの部屋のベッドの上で身の上に起きたできごとを時系列でできるだけ細かく書きとめた。あとになって何度もなつかしく思い出したいできごとではないが、記憶の奥にしまいこんでできることなら忘れてしまいたいとも思わなかった。なによりも、起きたことをできるだけ正確に記録しておきたかった。時間が経てば細部は失われ、のっぺりしてあいまいな印象だけが残る。しかしこういう場合は細部にこそ価値があり、細部こそが事実を語るのだ。
 わたしはそのようには意識していなかったが、書くことによって自分のかかわった事実を自分からある程度切り離して客観視することができる。それによって一種のカタルシスをもたらす可能性があるしパラノイア的な状態から抜け出す効果も期待できる。いずれにせよ、その夜は長い時間をかけてメモを書きつづけた。

 帰京すると広島で書いたメモをもとに詳しいレポートを書いて警視庁に行き、インターポールの窓口になっている国際共助課という部署の担当警部補にことの顛末を話した。
 日本には「北」も「南」も含めて多くの諜報関係者がいるはずだから、自分の国にいるから安全と言うことはできない。しかしこの部署がわたしの報告を記録として持っていれば不審な死に方をしたときに事件として取り上げられるかもしれないと思った。警部補は話を聞き終わると、自分が話を聞いたからといってもあんたの無実が担保されるわけじゃないよという意味のことを言った。警察組織らしい物言いだ。彼らがわたしを守ってくれる保証はなかったが、できることはやったと思い、とりあえず満足した。
 帰国してからしばらくは多分にパラノイア的な心理状態にあった。常に監視を受けているとかんじていたし、路上に止まっている車があればわたしを監視している人物がいるように思えた。それは事実だったかもしれないが、おそらくは不安が生んだ妄想だったのだろう。

 外国人がなんらかの嫌疑をかけられて監視や尾行を受けることは日本を含むどんな国でも起こっているし、そのこと自体はとりたてて驚くようなことでもない。しかしそういうできごとが自分自身の身に起きると話は別だ。
 入管で手荒な扱いを受けたわけではないけれども逃げることは不可能な状態だった。尋問を受け、それからひとりきりで応接室で何時間か過ごした。部屋の外がどうなっているのか、監視がいるのかどうかは確かめなかったがおそらくいたと思うし、いなかったとしても誰にも気づかれずに建物の外に出ることはできなかっただろう。なによりも韓国という国家自体がわたしにとっては檻だった。
 応接室で眠りこけていたあいだに、わたしの言ったことについていろいろな方法で裏をとっていたのだろう。入管の資料をすべて洗い、韓国の保有する過激派のファイルを繰り、警察と接触した。KCIAや在日本韓国大使館とも連絡をとったかもしれない。仮に過激派がらみだとすれば彼らにとっては重要な案件だ。国家の機関がフル回転して情報を探し回ったにちがいない。
 それからすこしして入管からは放免された。入管自身が拘留したり、あるいはそのまま警察に引き渡すほどには疑惑が深まらなかったということは考えられる。怪しい情報が出てこなかったのでシロと判定されたのかもしれない。しかし情報が出てこないからシロと判定するほど彼らが甘くなかったのはその後の状況の推移が証明している。どの機関が判断したのかはわからないが、泳がせてみることにしたというのがもっとも可能性がありそうだ。
 だが細部を思い返してみると腑に落ちないことがいくつもある。彼らは荷物を調べなかったし身体検査もしなかった。身ぐるみ剥いで調べてもよさそうなものだが質問の連打を浴びただけで済んだ。このへんがどうもよくわからない。厳密な態度と杜撰な態度がないまぜになっているという気がする。この不確かな印象は出国するまでのあらゆる瞬間にかんじられていた。
 入管の仕事が終わるとわたしの監視という仕事は警察(あるいは警察とKCIA)に移った。入管からバスターミナルまで送ってくれた男はおそらく刑事だと思う。入管の人間という雰囲気ではなかった。バスにはおそらく監視者が乗っていた。バスの中で会った学生はたぶん警察の関係者ではない。彼はわたしと別れたあとで警察に呼ばれてさんざん取り調べを受けたにちがいない。晋州に到着したわたしはその瞬間から尾行されたが、尾行がいるとは思いもしないわたしは気づいていなかった。
 宿に現れた二人組の刑事の目的は軍隊用語でいえば威力偵察だったと思う。小規模な部隊で攻撃して敵の反応や部隊規模をさぐる。敵をすこしつついてみるのだ。彼らは威圧して反応を観察した。お前は自分たちの監視下にあるという宣言でもある。彼らは、ことばでは言わなかったが、はやく出国しろと謎をかけていたのかもしれない。
 翌日も、午後になってバスで釜山にむけて出発するまで、ずっと監視されていた。かならず二人組で、ただし顔ぶれは次から次へと変わっていった。この尾行にしても気づかれないようにすることは可能なはずで、気づかれることを織り込んだ行動だったようにも思われる。
 釜山行きのバスにはわたしを監視するために乗り込んできたと思われる男がいたがこれについては確信はない。強迫観念が生んだ妄想だったかもしれない。
 釜山に着くとタクシーで日本総領事館に向かったが、総領事館を担当している(つまり監視している)刑事が車で尾行し、それからわたしが領事と会って出てくるまでのあいだずっと待機していた。わたしが領事館を出ると、そばに寄ってきてホテルまで送るといった。なぜ送るといったのかはわからない。そのまま警察に連れていくつもりだったのかもしれないし、本当に送ってくれるつもりだったのかもしれない。彼らが力づくで連行するのは簡単だったはずだがそれはしなかった。人目のある町の中では手荒なことはしにくいということだったのかもしれないがよくわからない。
 領事は警察にかけあってわたしから手を引くように言っていたが、結果的には警察は領事の要請を無視して尾行をつづけた。このあたりの力関係はよくわからないが、領事がわたしという人物を記憶してくれたことが最大の収穫であり、それこそがわたしの狙いだった。
 当時の韓国は民主主義国家ではなく、大統領の強権のもとでKCIAに象徴される国家機関が国民を監視するような社会体制だった。つまり人権は危うい状態にあったから、警察に連れていかれて拷問をふくむ圧力の下で自白を強要され、犯罪者に仕立て上げられることを想定しなければならなかった。そのような事態にならないようにするには日本という国家がわたしの存在と置かれた立場を認知していることが重要だ。その上でわたしが行方不明になり、あるいは逮捕されるとしても、その後の状況は変わってくるはずだと思った。それゆえ、領事がわたしを認識しているという事実には相当に勇気づけられた。
 翌日の朝、ホテルを出てすぐに別の尾行者に気がついたが、この尾行も半ば陽動作戦だったように思われる。尾行していることを気づかせて出国するよう促しているのだとこのときはじめて思った。K航空のオフィスで福岡行きの航空券を買うときもこの男はオフィスに入ってきた。K航空のオフィスで発券してくれた係員はわたしがどういう状況にいるかを十分に把握しているようだった。実にリラックスした態度で接しながらソフトな恫喝をこころみた。彼は航空会社に配置された警察あるいはKCIAの関係者だったかもしれないし、航空会社という組織が捜査機関あるいはKCIAと密接につながっていたというだけのことかもしれない。いずれにしても、わたしの立ち回り先にはわたしが行くということだけでなく、どういう人物かという情報までもが伝えられていた。K航空で航空券を買うつもりでホテルを出たわけではなく、JALのオフィスが見つからなかったのでたまたま手近にあったK航空に行ったにすぎないが、それにもかかわらず、わたしに関する情報はオフィスにいる職員に伝えられていた。その後も尾行は空港までつづいた。
 ここまでに登場するのは、当然のことだが、わたしが認識した尾行者たちだ。だが実際にわたしの行動を監視していたのは彼らだけだったのだろうか。日本での事例だが、オウム事件に関わる捜査では、あるとき五十人もの捜査員がひとりの人物を同時に監視し尾行したという。自分自身が認識したのは常にひとりかふたりだったが、それ以外にわたしを尾行し監視する人物がいる可能性があったにも関わらず、そのことには思いが及ばなかった。わたしの意識は顕在する尾行者たちに集中していて視野狭窄に陥っていた。
 空港のカウンターの職員がなにを伝えようとしたのかはわからないが、あとから考えると当時の韓国という国家からのメッセージを代読したのかもしれないと思えてきた。
 そしてこれもあとになって感じられてきたことだが、彼の言葉にはいくらかのあたたかさがあった。さりげない口調ではあったが、わたしをなぐさめ、安心させようとしたのかもしれない。そこから改めてわたしが出会った(つまりわたしを調べ、監視した)ひとびとのことを思い出し、そのひとりひとりについて口調や態度を再検討してみると、やはりそれぞれになんらかのメッセージを発していたように思われてくるし、そのメッセージには彼らの個人的な好意が隠れていたとさえ思えてくる。彼らはそれぞれの立場で可能な範囲において、かなり親切だったのだ。
 入管の職員は食事を奢ってくれただけでなく晋州への行き方をアドバイスしてくれた。入管からバスターミナルまで案内してくれた男は両替をしてくれた。晋州で旅館の部屋にまで入ってきた刑事は木浦への行き方をずいぶん詳しく教えてくれた。そうであれば領事館担当の刑事は本当にホテルまで送ってくれようとしたのかもしれない。彼らの役割はそれぞれに深刻な恐怖を感じさせたが、あとになって思い返してみると、彼らの個人個人には悪い印象が不思議なことに感じられないのだった。
 彼らは体制の中でそれぞれの役割を仕事として果たしていたに過ぎないと思えたし、その背後にある彼らの人間性には不快な感じを受けなかった。不思議な感覚だ。ただしその感覚は三十年以上が経ってから気がついたことで、追われている瞬間には単に怯えているだけだった。
 こういう自分の意識の揺らぎを繰り返して思い起こしているうちにストックホルム症候群とかリマ症候群とかについて考えている自分に気がつく。一九七三年八月、ストックホルムで銀行強盗が人質をとって立てこもる事件が起きた。このとき犯人と人質との間に、のちにストックホルム症候群と呼ばれるようになる特徴的な関係性が生じた。それは人質が犯人に協調する心の動きとそれに起因する協調的な行動といっていいだろう。ストックホルム事件では事件が長引く中で人質は警察に敵対する行動を取るようになり、事件後の裁判では人質側が被告に有利な証言を行ったし、人質のひとりは犯人と結婚した。
 リマ症候群は単純にいえばストックホルム症候群と鏡像のような関係にある。この場合は犯人が人質に共感し、態度を和らげた。一九九六年十二月、在ぺルー日本国大使公邸で行われていたレセプションにトゥパク・アマル革命運動(MRTA)を名のる左翼テロ組織が侵入して大使公邸を占拠し、七十人以上の人質が犯人と百二十七日におよぶ期間を過ごすことになった。このとき若いゲリラたちは人質と生活を共にする中で他国の文化や環境に興味を示すようになり、関係は良好になっていった。軍の特殊部隊が突入した時も彼らは人質に発砲することができずに全員が殺害された。
 監禁事件の特徴のひとつに、異常な緊張にあるとはいえ、時間的には暇だということがある。緊迫した時間はいつまでもつづくことはできず、すこしずつ弛緩していくものだ。わたし自身は人質になっていたわけではないけれども、監視し尾行する人々とのあいだで緊張状態にあった一方で、繰り返し小さな弛緩を経験した。
 さらに、これは憶測にすぎないのだが、わたしが目指したのが全羅道だったことも体制側の監視者になんらかの暗示を与えたかもしれない。全羅道は韓国においてある種の差別的な視線を浴びる土地であったのだ。
 歴史的に百済以来の全羅道に対する差別があるという指摘がある。さらに朴正煕は自らの出身地である慶尚道を優遇した。経済開発にしても慶尚道が重視された一方、全羅道は軽視され、ひとびとは働き口をもとめてソウルなどの大都会へと流出していった。そして全羅道にあって半島の南西端の港町である木浦は金芝河金大中の出身地でもある。

 この出来事から二十年近くが経った一九九〇年代の半ば、韓国に行く機会がめぐってきた。観光旅行ではなくて行かなければならないビジネスの旅だった。韓国はすでに民主化されていたが、わたしに関する記録が残っているとすれば問題が起きる可能性があった。同行者には一九七八年の出来事については話さなかった。無事に入国できるかどうか、なにごともなく出国できるかは賭けだと思っていた。
 金浦国際空港に着いたわたしの体は緊張で冷えきっていたが入国手続きはなにごともなく済み、ある財閥系の商社に直行して会議に参加して、夜は高級料亭で接待を受けた。韓国はもはや翳った灰色の国ではなく、経済発展をつづけて日本に肉薄しようとする近代的な国家になっており、会った韓国人はみな明るく快活で現実的に見えた。憑きものが落ちたような気分だった。
 夜。泊まっているホテルのバーにひとりで降りていくと女の歌い手がピアノの脇に立って歌っていた。ラメの入った黒いロングドレスが煌めいている。彼女の背後には巨大なガラスの壁があってその外にソウルの夜景がひろがっている。バーの暗がりと夜景とが滑らかにつながっている。ソファに埋もれてバーボンのロックを味わいながら耳慣れたジャズナンバーを客の会話の邪魔にならない程度の声量で歌う彼女の姿を眺めていた。
 周囲のすべての方向に星が敷きつめられた空間にわたしひとりが漂っている。星空を旅している。それは自由の感覚に似ており、強烈なカタルシスに縁どられていた。
 克服したか?
 ああ、そうらしい。たぶん。

(了)