[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

ドアの向こうに朴正熙がいた(3)

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3 尾行

 翌朝、目覚めたのは八時前だった。ぐっすりと眠ったらしい。気分は悪くなかった。じりじりしながら待ち、九時になると同時に主人に釜山の日本領事館に電話してもらった。日本領事館に電話することによって身の潔白を主人にわかってもらいたいという気持ちもあった。
 だが電話を頼んだ時も主人は悲しそうで伏目がちで、わたしと出会ったことを後悔しているように見え、しかしなぜかその印象は完全ではないのだった。不完全な部分とは何か?しかしその時は、自分の身の安全に気を取られて主人の感情の起伏にまで思いが及ばなかった。
 受話器のなかで呼び出し音が何回か鳴り、そして「ヨボセヨ」という小さな声が聞こえてきた。「日本人のスタッフをお願いします」と英語で言った。「ご用件は」と彼女は日本語に切り換えて尋ねてきた。簡単に事情を説明すると彼女は少しの間だけ電話口を離れ、戻ってくると「一度来てみて下さい」と言った。
 領事館に経過を報告したことで気分が楽になったわたしは急に元気が戻ってきていくらかでも観光をしようという気になり、この町で一番の史跡である晋州城跡を見に行くことにした。
 晋州は秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰倭乱という)当時の激戦の地のひとつだ。南江の左岸にある晋州城をめぐる戦い(晋州城攻略戦)は、日本では加藤清正や森本儀太夫が活躍したことで有名だ。一五九二年十月の戦いでは朝鮮側が勝ったが、翌年の六月の戦いでは日本軍の大兵力が投入されて晋州城は落城する。戦いのあと、日本軍は晋州城内で戦勝の酒宴をひらいたが、このとき論介《ノンゲ》という妓生《きーせん》がその後になって義岩(ウィアム)と呼ばれることになる岩の上から日本人の武将を道連れに南江に飛び込んだという説話が朝鮮側にある。義岩は岸に近い川の中にある平らな岩で、大きさは縦も横も三メートルをすこし越える程度らしい。城内にある轟石楼(チョクソクル)は十三世紀に建設された楼台だが、現在の建物は一九七二年に復元されたものだ。高台にあって眺めがよく、町の観光名所になっている。
 その轟石楼への行き方を主人に尋ねると途中まで送ってくれるというので一緒に宿を出た。宿を出てどちらも無言で歩いていく。いまのわたしは病原菌みたいなもので、触れた誰もが悩みと後悔を抱え込んでしまう。それはわたしの責任ではないが、わたしの存在がなければ彼が悩むことはなかったのもたしかなことだ。主人はなにかを伝えたがっているのだが、この国のある重圧がそれを禁じている。そのことがはっきりとかんじられてきた。
 当時は朴正熙体制の末期で、さまざまな局面で大衆の不満が高まっていた。だが政治的な話は危険であり、まして警察から目をつけられている外国人に政治の話をすることはかぎりなく危険だったはずだ。わたしも彼も言いたいこと説明したいことが山ほどあったがなにもいわないほうが彼には迷惑がかからないだろうと思った。言ってはいけないのだとお互いにわかっていた。そういう空気が生み出す沈黙がわたしたちを結びつけていた。

 南江をまたぐ橋のたもとで主人と別れて轟石楼のほうへとひとりで歩きはじめてから不審な人物に気づくまでにはいくらもかからなかった。
 ゆるい坂道を登って行く途中で何気なく後ろを振り返ったとき、ひとりの男が後ろを歩いているのが見えた。男は茶のズボンに茶色のサファリジャケットを着ている。短髪で面長で浅黒い皮膚の、これといって特長のない男だった。
 見た瞬間、その男が尾行者だとわかった。カンにすぎないが、まちがいないと思った。きのうの朝から夜にかけての出来事を通じて感覚が異様に鋭くなっていた。外界に対するセンサーがからだじゅうに生成されてハリネズミのようになっていた。背中に目があるようなかんじだった。もはや観光するような状況ではない。途中で引き返すことにした。
 茶色のサファリジャケットが太った男と立ち話している。そのすぐ脇を通りすぎるとき、太った男のはち切れそうになった開襟シャツがひどく汗ばんでいるのに気がついた。ふたりはわたしをまったく無視したまま、向かいあって熱心に話している。熱心に話すふりをしている。あまりにも会話に熱中している様子が不自然だった。
 途中で南江の河原に下りるとそのまま橋を目指した。男たちの姿は見えなくなったがどこからか監視しているのは間違いなかった。橋のたもとにある階段を伝って橋の上に出て、中央あたりまで行ってから川を見ているふりをしながら様子をうかがっていると、彼らがわたしを追っておなじ階段をあがって現れるのが視野の隅に見えた。それから彼らはこちらに向かってとてもゆっくりと歩いてくる。
 ちょっと仕掛けてやろうと思った。橋の上をバスターミナルの方向に、つまり宿とは逆の方向にゆっくりと歩き、彼らをすこし引きつけてから、急に向きを変えて宿の方角へと戻りはじめた。男たちとすれちがってやろうと思ったのだ。しかし彼らを見ることはしない。わたしは彼らに気がついていないことになっている。ふたりの男はぎくりとしたように一瞬立ち止まってから、押し出されるように向きを変えてわたしの前をゆっくりと歩きはじめる。
 彼らの歩き方に恐怖も忘れて見入っていた。不思議な歩き方だった。膝にも足の全体にも力が入っていないように見える。からだ全体に力が入っていない。スローモーションのようで、まるで雲を踏んでいるようなのだ。しかも存在感が薄い。存在が消えかかっている。半分透明になりかけている。だれもが彼らの存在に気がつかない、そんな歩き方だ。尾行の訓練というのはまず自分の存在感を消す努力からはじまるのだな、とひとりでうなづいていた。
 橋を渡り終えても彼らを追い抜かないよう、こちらもゆっくりとした歩調で歩いた。その結果、彼らは尾行する目標の前を、すがたを晒したままで歩かなければならない状況に陥っているのだった。そこで彼らはできるだけゆっくりと歩いてわたしが追い抜くのを待っているのだが、なかなか抜かれない。彼らにとっては困った状態がつづいた。
 ゲームはそれくらいにして、途中の信号待ちで素知らぬふりをして彼らに並んだ。信号が変わるとふたりを追い越し、今度は急ぎ足で宿にもどった。すぐにでもこの町を脱出して釜山の領事館に行かなければならない。
 宿に着いたのは十時すぎだった。一時間ほど散歩したことになる。とりあえず高速バスターミナルに向かうことにした。バスの時刻はわからなかったが頻繁にあるはずだ。主人はタクシーのところまで見送りにきた。悲しげな表情だったが何も言わなかった。
 「さよなら」
 「気をつけて」
 たしかに気をつけなければならなかった。しかしどのようにすればいいのだろうか?
 タクシーが動き出すとうしろをふりかえって後続車に注意してみた。そしてすぐに、後ろをついて来る乗用車の中に茶のサファリジャケットの男を発見した。彼のとなりには太った開襟シャツの男がいた。彼のシャツはぐっしょりと汗でしめっているはずだ。
 午前十一時前、高速バスターミナル。しかし釜山行きのバスは午後三時まで満席だった。すぐに鉄道駅に行ってみたが釜山行きの列車は実に少なかった。結局はバスに乗るしかない。徒歩で宿に戻るわたしの五十メートル後方を、茶のサファリジャケットと太った開襟シャツがゆらゆらと陽炎のようについてくる。
 正午前に宿に舞いもどり、主人に釜山の領事館に電話してくれとまたも頼み込んだ。時間がゆっくりと過ぎていく。じりじりと鉄板の上で焼かれるような気分だ。
 電話は三十分ほどでつながったが、日本人ではない女性の声が「休憩中なので、午後二時にかけ直してクダサイ」と涼しげに言った。「部屋で休んでいいですよ」という主人の好意を無視して宿の前にあるタバン(韓国語で喫茶店を意味する。漢字で書けば茶房)に行った。後を追うように茶色のサファリジャケットと太った開襟シャツがするりと店に入ってきてすぐ背後に席を占めたので、彼らに完全に監視されることになってしまった。韓国のガイドブックを取り出して文字を目で追ってみたが頭に入ってこない。文字が浮いて見える。考えもまとまらない。
 午後一時半。宿に戻って主人に昼食を頼んだ。食事を待っていると茶のサファリジャケットが中庭に入ってきてトイレに消えた。主人は男が入ってきたことにすら気がつかない風を装っている。このゲームにおいてはわたしは彼らに気がついていないことになっている。あいつらは空気なんだなと再び思った。
 電話は二時すぎにようやくつながった。日本人の男の声が聞こえてきた。声は「わたしはYといいます」と名乗り、自分が警察関係の領事であることを告げた。わたしの話を簡単に聞いたY領事は「とりあえず、すぐに来なさい」と言った。晋州から釜山へは高速バスで二時間ほどだ。「午後五時半には行けると思います」と答えた。時計は午後二時半を指していた。バスの発車は午後三時。宿を出ると再びタクシーで高速バスターミナルに向かった。うしろの車には、確認するまでもなくあの茶色のサファリジャケットが乗っている。
 午後三時ちょうど。バスはターミナルを離れ、やがて釜山への高速道路に乗った。ゲームはまだつづいているようだった。客席の中ほどの進行方向右の窓際のわたしの席と左右対象の位置にバトンタッチした尾行者がいる。色白の二枚目風。茶のサングラス。紺のジャンパーを着ている。高速道路を走るバスの車中でその白い横顔を盗み見た。表情を見せることのないその男は正面を向いたままだ。ロボットみたいだなと思った。そのロボットは精密な探知器を装備していて、どこに逃げても一定の距離を保ったまま追尾してくるに違いない。
 ずっと後になって、タイの田舎の人里離れた原っぱのようなところで数十頭の野犬の群に出会ったことがあった。尾行するシステムとの関係は、このときタイで出会った野犬の群との関係に似ていた。数十頭の野犬の群は白い歯をむき出しながら包囲の輪をじわじわと縮めていき、やがてもっとも近い牙はわたしのふとももに触れそうな距離にまで迫った。暑いタイだからそのときはショートパンツにゴム草履を履いていてTシャツだった。野犬の牙からほとんど完壁に無防備なわたしは自分の置かれている状況がかなり危険だと悟っていたが、だからと言って安全に脱出できるうまい方法など何ひとつ思い浮かばないのだった。はっきりしていたのは動けば死を招くかもしれないということだけだった。立ち止まったままで息を殺した。気持ちで負けないようにしながらできるだけ冷静になろうとした。いくつも重なるうなり声の中で、しわだらけのロの中の涎(よだれ)と鋭い歯の列を、できるだけはっきりした映像として捉えようとした。恐怖心がすべてを台なしにするのだぞ。と、もうひとりの自分が囁いた。走り出してはいけない。恐怖にかられて走り出せば、その瞬間に破滅的な結末がまちがいなく訪れる。何分かがすぎた。野犬の群はあいかわらずわたしを包囲していたが、やがてもっとも近くにいた一匹が興味を失ったようにわたしをにらみつけるのをやめて別の方角を見た。たぶんこれがボスだったのだろう。それをきっかけに、彼らはわたしを置き去りにしたまま、周囲を威圧しつつゆっくりと移動していったのだった。
 尾行してくるシステムとの遭遇においても、わたしの動物的なカンは「走ったらやられる」ことを教えていた。彼らに気づくことはせず、平静を保ち、刺激せず、ゆっくりと動くのだ。
 午後五時十五分、バスは釜山の高速バスターミナルに到着した。このバスターミナルを出発したのは昨日の午後だったというのに。すぐにタクシーで日本領事館に向かった。だが、うしろをついつい見てしまう。すると一瞬で古びたブルーの乗用車が三十メートルかそれくらい離れてついてきているのを確認した。野球帽のような帽子をかぶった運転手のとなりには小太りの男が座っている。太い黒縁のメガネとロ髭が印象に残った。領事館へはあっという間に到着した。Y領事に面会したのはわたしが告げた通り十七時半ちょうどだった。
 Y領事は警察庁から派遣されてきている人物だった。物腰の柔らかい彼の落ち着いた語り口を聞くうちに、緊張しきっていた体中の糸が少しずつ緩みはじめるのがかんじられた。ひとりきりで包囲と監視に晒されて過ごした一晩のあとで、日本という国家がわたしを守ろうとしている。
 Y領事はわたしの長い話を聞き終わると、ひとこと「ひどいことをするもんだ」と言った。そしてつづけた。「わたしから当局には抗議しておくよ。旅行をつづけるかどうかは君の自由だ。つづけてもいいし帰ってもいい。自分でよく考えて決めなさい」
 Y領事は緊張して疲れきったわたしの様子を見て同情したのだろう、雑談をはじめた。
 「わたしなんかね、この国のどこに行ってもずっと尾行されているんだよ」
 「え。そうなんですか」
 「そう。当然、この国の外交官も日本においては同様に尾行されるわけだがね」
  同席していたKさんという韓国人の若い男性はY領事のアシスタントをしているらしかった。さかんに「もう心配しないで」と言ってくれる。そうこうするうちにだんだんに冷えきっていた体が暖まっていった。
 一時間ほども話しただろうか。領事に礼を言い、Kさんが予約してくれた南浦洞(ナムポドン)のN観光ホテルに行くことにして領事館を出た。午後六時半を過ぎており、あたりは薄暗くなりかけていた。領事館の正門を出て中央路(チュンアンノ)を南の繁華街へと百メートルも歩いたあたりだろうか、不審な車に気がついた。わたしのすこし前を、歩道の縁石に触れそうになりながら一台の車がのろのろと走っている。その車がさらに速度を落としてわたしの歩く速度にあわせたかと思うと、窓越しに運転手が「N観光ホテルに行くんでしょ。乗せてあげます」と日本語で言った。反射的に「結構です」と断ったが、その運転手の顔にも車にも見覚えがあった。後ろの座席にいた男がドアを開けて降りてこようとしている。その顔をみて、はっとした。釜山の高速バスターミナルに到着してから領事館に着くまで尾行してきた男だ。タクシーの中でうしろを振り返った時に記憶に刻みつけておいたふたりの男の映像がよみがえった。
 拉致される。そう思った。くるりと向きを変えると領事館に向かって戻りはじめた。走ってはいけない、叫んではいけない。パニックになれば死を招くのだぞと思いながら。領事館の門をくぐる時に振りかえると車は元のところに止まっており、口髭の男がそのわきに立ったままこちらを見ている。
 領事館の敷地に入るとこれで助かったと思い、深く溜め息をついた。もうここは日本だ。ここには治外法権という強力な味方がいる。しかし近づいてみると領事館の明りは消え、建物の扉は閉ざされている。暗澹とした気分が襲ってきた。この敷地内に夜通し居残るのは許されないにちがいない。
 そのとき、一台の黒い公用車が裏の方からゆっくりと現れた。わたしは門を出ようとしていたその公用車に駆けよると、ピカピカに磨き上げられたドアにすがりついて「拉致されかけたんです!」と叫んだ。車が急停止し、窓が開いて不審そうな表情が現れた。きょう最後に退出するS領事だった。彼は当然のことながら今日のわたしとY領事のやりとりを知らないのだろう。しかし必死に説明するのを聞いて表情を和らげると、「守衛室に入りなさい。守衛にY領事と連絡をとらせなさい」と言うと窓を閉め、しずしずと退出していった。
 いずれにしても多少は光が見えてきた。守衛にY領事に連絡するよう依頼すると、せまい守衛所の隅にある木製のベンチでじっと待った。ブルーの乗用車はあいかわらず門の外に止まっていて、運転手と口髭の男が中にいるのが見える。
 わたしの立場はどんなものなのか。独裁的な強権国家の破壊的な腕がわたしを捕らえようとして迫りつつある。そのことが切実にかんじられた。無実であることはもはやわたしを救う武器ではない。事実は作り上げられることもある。Y領事もS領事もわたしの言うことを信用してくれたはずだが、しかし強力な庇護の手は結局は差しのべられなかった。
 わたしは自分の身を守ってくれる具体的な手段を欲していた。それはたとえば完全武装した護衛の一個大隊とか、日本へと運んでくれる軍用機とかである。しかし現実はちがっていた。すっかり暮れてしまった釜山の夜の七時近く、日本人のひとりもいない領事館の守衛所の隅におびえて座りつづけ、来るかどうかも分からない一本の電話を待っている。外では拉致を目的としているに違いない男たちが待ち受けている。日本はほんのひと飛びの近さにあるのにはるかに遠い。
 七時ちょうど。守衛所の電話のベルが鳴った。Kさんが電話口の向こうで「もう心配しないで」と語りかけてくる。拉致されそうになったと訴えるわたしの報告をだまって聞いていたKさんは、落ち着いた口調でこう言った。「あ、その男はですね。彼は領事館担当の刑事ですね。」
 思いっきり空振りしたホームランバッターのような気がした。わたしひとりが妄想に振り回され、力んで騒いでいたのだろうか。しかしわたしのカンは明らかに異常な事態が起こりかけていると告げていた。
 Y領事が電話口に出てきた。「今ちょっと宴会に出てるんだけどね。すこし待っていなさい。これから行くから。」
 電話は切れた。勇気がまた湧いてくる気がした。閉じこもっていた守衛所を出て門のところまで歩いていった。外にはあいかわらず、ブルーの乗用車がとまっている。鉄の門扉に顔を触れるようにしてロ髭の男に呼びかけた。
「ヨボセヨ!」
 男は不審げな様子を見せると小さな通用ロを通って入ってきた。守衛所の前で男とむかい合って立った。
「なぜ尾行するんですか!」
「知らないよ」
「なぜ!」
「友達がいる…」
 男は視線を逸らすと守衛所に入っていき、中の守衛たちと雑談をはじめた。彼らとは旧知の仲のようだ。
 夜八時、Y領事がKさんを伴って現れた。ロ髭の刑事はいつのまにか姿を消していた。領事は「しつこいやつだ」と呟くと守衛所からどこかに電話をかけた。相手は警察らしかった。しばらく韓国語の押し問答がつづいたあとで電話を切ると、領事は「話はつけた」とひとこと言った。
 「食事は?」
 領事が尋ねた。
 なにも食べていないことに気がついた。
 「かわいそうに。食事に行こうか」
 領事はそう言うとKさんに命じて宿を変更した。今度は領事館のすぐとなりにあるSホテルである。守衛に口止めすると裏口からそっと外に出た。
 その夜、領事が奢ってくれたタ食にはほとんど手をつけることができなかった。ひどく空腹をかんじているのに食べられない。空腹が食欲と離ればなれになっている。肉体と心理が乖離しているだけでなく、自分の全部がばらばらになっている気がした。自分が自分を支配しきれていない。お手上げになっている。自分がみじめだった。ネズミトリを目の前にしたドブネズミみたいなものだ。ただ、そういう自分を突き放して見ているもうひとりの自分もいて、自分自身の消耗と崩壊を綿密に観察して記録している。
 Y領事とKさんはSホテルの部屋まで送ってくれた。夜の九時すぎ、一番奥まった部屋に入るとY領事は言った。「あしたの朝、彼から電話させる。ここは安全だから。よく眠るように」
 だが彼らが帰って行くとまたひとりきりだった。ドアにかけた鍵などなんの意味も持ちはしない。わたしは結局は無防備であり、一瞬のあとの自分の運命すらわからない。十時、十一時。目が冴えていった。

 ドアの向こうに朴正煕が立っている。
 まっすぐで長い廊下は薄暗くて奥のほうはよく見えない。その廊下の一番手前の、わたしの部屋のドアのすぐ前に朴正煕は立っている。暗い色の背広姿で両手の指をまっすぐに伸ばし、脇にぴったりとつけている。天井の小さな明かりの直下にいるのでその表情は翳っていて見えない。しかしその立ち姿は背中に鉄の杭が入っているかのように硬い。人間として不自然なほどにまっすぐに立っている。強い意思によって立っているのではなく、まるで死者が直立しているかのようだ。
 彼はドアの前を動かない。彼が指揮しているのは死の部隊だ。部隊は近くに展開し終えている。そして深夜。急にドアがノックされる。その音が激しくなり、やがて乱暴に開かれると何人かの男たちが入ってくる。わたしの両腕を荒々しくつかむと路上に連れ出し、車に乗せて外出禁止令のもとで無人となった街路を疾走したあげく、ある建物に連れ込む。そこには何人かの男たちが待っている。彼らはなにもいわない。
 わたしは彼らに、いくぶん間隔をおいて、しかし正確に腹部を殴られる。胃の中にあったものを全部吐き出して気を失うと、冷たい水を浴びせられて意識をとりもどす。それがどれくらいくりかえされたか覚えていないくらいのあいだつづき、やがて意識が完全に断線する。気がつくまでにたぶん長い時間が経っている。なぜなら衣服が乾きかけている。コンクリートの床に倒れたからだがまったく動かない。全身から力が失われているし目も開かない。息をするのがひどく苦しい。
 両腕を抱えられて椅子に座らされると、ようやく尋問がはじまる。お前は共産主義者か。ちがう。韓国にきた目的はなにか。ただの観光です。どのセクトに属しているのか。どんな指令を受けたのか。韓国ではだれに接触することになっているのか。
 ボーッと炎が吐き出される音がする。バーナーだ。来た目的は?バーナーの音が近づいてくる。
 わたしが直接的にイメージしていたのは、この当時は獄中にあった反体制詩人の金芝河(キム・ジハ)の運命だった。彼の裁判のニュース映像で見た拷問の傷跡をおぼえていた。一九七〇年に当時の特権階級の腐敗を風刺した長篇詩『五賊』を発表したことで反共法の違反容疑で逮捕され、一九七四年には死刑判決を受けたこの詩人の顔はバーナーかなにかで焼かれたのだろう、ケロイド状になってひどくひきつっていた。
 金芝河が受けたようなはげしい拷問をわたしは恐れていた。取り調べを受けたなら、じっと座ったままで目をつよく閉じ、すすり泣きながら小便をもらし、ズボンを濡らしたままで暴力を待つだろう。相手が暴力をやめるまで、相手が気に入るまで、どんな告白でもするだろう。わたしは共産主義者です、破壊活動のために入ってきました、と。
 時計の針が零時をまわった。部屋の明りを消して暗がりの中でベッドに座っていた。ときどき窓に近寄ってカーテンの隙間から路上を見た。五階の窓から見える路上には誰もいない。それもそのはずでこの時間に外にいれば即座に逮捕されてしまうから、ひとのすがたが見えるはずがない。それを何度か繰り返すうちに、やがて疲労と眠気が勝ってきて、ベッドに倒れ込むとそのまま昏睡した。

 陸軍少将だった朴正煕は一九六一年五月十六日にクーデターを起こして権力をにぎり、一九七九年まで継続して権力を掌握していた。一九六三年から一九七九年までは大統領だった。わたしが訪れた一九七八年という年は足かけ十九年つづいた朴正煕の時代の末期にあたる。彼は翌一九七九年十月二十六日に韓国中央情報部(KCIA)の部長だった金戴元に射殺される。
 わたしの体験は朴正煕という人物がつくりあげた体制の末期の状況の中で生まれた。状況と深く関わっていたと言えるかどうかはわからないがそういう社会状況のなかで起きたのは事実だ。当時の体制にも社会にも朴正煕個人の思考や体質が色濃く反映していたに違いない。では朴正煕とはどんな人物で、どのようにして最高権力者にまでのぼりつめ、どう統治したのか。
 一九七八年、日本ではピンク・レディー山口百恵が全盛だった。サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でメジャーデビューし、『かもめが翔んだ日』(渡辺真知子)、『飛んでイスタンブール』(庄野真代)、『東京ららばい』(中原理恵)がヒットしていた。スペースインベーダーが登場し、成田国際空港が開港。日中平和友好条約が調印された年。カンボジアでは中国を後ろ盾に極左ポル・ポト派が自国民の大量死を進行させていた。イランではイスラム革命がはじまり、パーレビ王制が倒れようとしていた。アフガンスタンでは軍事クーデターが起きて共産主義政権が樹立されていた。アメリカと中国は国交を正常化しようとしていた。

 朴正煕の評価はいまだに政治的な思惑をともなっており、非情な独裁者という批判がある一方で、朝鮮戦争で疲弊していた韓国の経済を立て直し飛躍させた立役者という評価もある。韓国の経済発展が朴正煕の時代に進展したのはたしかなことで、経済的な発展を人権に優先させる、いわゆる開発独裁の典型と言っていい。
 一九五〇年代から一九七〇年のはじめまでは、韓国と北朝鮮の一人あたりDGPは拮抗していたらしいが、その後の北朝鮮経済が停滞したのに対して韓国は急成長をとげる。わたしが最初に韓国に行った一九七二年には北朝鮮経済は一時的ではあるが韓国をしのいでいたらしい。一九七八年には韓国の経済的な発展はたしかなものになりつつあり、一方で北朝鮮は停滞傾向が明らかになっていたと考えられる。ちなみに一九七八年の段階では日本と韓国の一人あたりDGPは三倍ほども差があった。

 朴正煕慶尚北道の貧しい農家に生まれた。優秀だが貧しい子どもたちにとって数少ない社会的な上昇の道のひとつだった師範学校に行き、卒業後は初等学校の教師をした。しかし教職を捨てて満州軍官学校入学する。軍人もまた出世の手段のひとつだった。満州軍官学校では優秀だったので日本の陸軍士官学校に行き、ここでも優秀な成績をおさめている。満州国軍での出世は約束されていたが日本が負けたために彼の軍歴は価値を失ってしまう。
 解放直後には満州から北京に脱出して一時は光復軍に加担する。重慶にあった朝鮮の臨時政府は自らの軍隊を持っていなかったので中国駐屯の日本軍のなかにいた十万あまりの朝鮮人将兵を光復軍(朝鮮独立軍)に編入しようとしていたが、そういう状況で朴正煕は舵を切ったことになる。
 一九四六年年五月に帰国した朴正煕は九月には朝鮮警備士官学校に入学する。この頃は朝鮮半島の米軍支配地域において共産主義勢力が力を持っていた時代だ。十月には大邱を中心に人民抗争が起き、共産主義者だった朴正煕の兄はこの抗争で警察に撃たれて死亡している。朴正煕南朝鮮労働党に加担し、軍内部の秘密細胞の構成員になる。
 終戦直後の朝鮮南部(つまり米軍の支配地域)では人民委員会を名乗る自治組織が生まれたが軍政はこれを封じ込めようとした。一九四六年十月、左派によるゼネストが起き、デモ、暴動へと発展する。この十月抗争で左派は壊滅的な打撃を受けたが済州島の左派だけは温存された。これに対して反共意識と済州島への差別意識がないまぜになって「赤い島」としての済州島は左派弾圧の標的になっていく。
 四七年三月、済州邑(現在の済州市)でおこなわれたデモに軍政警察が発砲して十数名が死傷したのをきっかけにゼネストが起き、これに対して警察が増強されるとともに右翼が来島して島民と左翼に対するテロ行為を行うようになる。この右翼とは北朝鮮から逃れてきたひとびとで構成される西北青年会というグループで、反共テロ、暗殺、対北朝鮮工作などを行ったといわれる。
 一九四七年八月以降、軍政の左派弾圧ははげしくなり、拷問やテロが行われた。済州島の中央にある漢拏山 (ハンラサン)には多くの洞窟があるが、左派の青年たちは山に逃れてこれらの洞窟を拠点に抵抗する。
 一九四八年に入ると左派は蜂起を決断する。四月三日、推定三〇〇人が警察支署と右翼を襲撃して武器を奪った。六月、米軍が指揮する軍と警察による鎮圧作戦がおこなわれて数千人が逮捕される。
 そういうなかで十月、麗水・順天事件が起きた。麗水駐屯の韓国軍部隊が済州島への派遣に抵抗して起こした反乱である。麗水では警察・右翼一二〇〇人が殺害された。当時の軍内部には左派の兵士も多く、これに対する粛軍の圧力も背景にあった。戒厳令の下で市街への艦砲射撃がおこなわれ、一ヶ月におよぶ鎮圧作戦ののち、左派は山に逃れて山岳地帯での武装闘争(山岳パルチザン)に移行する。智異山にはパルチザンの根拠地が置かれた。済州島では麗水・順天事件以降、中山間地域で左派が弾圧の対象になり、一九四九年春まで殺戮がつづいた。
 朴正煕が左翼容疑で逮捕されたのは麗水・順天事件が起きた翌月の一九四八年十一月のことで、逮捕されると一転して粛軍捜査に協力した。彼の自白と情報によって軍内部の細胞は壊滅する。一九四九年二月、軍法会議で死刑求刑。判決は無期懲役だったが刑の執行を免除される。取引があったのだろう。その年の十月には中国革命が起きて共産主義政権が成立。翌一九五〇年六月に朝鮮戦争がはじまると朴正煕は現役に復帰する。朝鮮戦争前夜の時代を朴正煕は転向によって生き延びただけでなく、共産主義勢力について熟知していたことで軍の内部で重用され上昇していった。

 朴正煕少将がクーデターを起こしたのは一九六一年五月十六日。その翌月には大韓民国中央情報部(KCIA)を創設している。初代の部長は金鍾泌キム・ジョンピル)。この組織は朴正熙時代の韓国で表と裏の情報収集に加えてさまざまな工作を実行した。監視、拉致、殺害、拷問をふくむ取り調べなどである。最盛期の組織規模は十万人だったという。大変な数だが北のスパイ組織との対峙に加えて国民の監視を実行するにはそれくらいの人数が必要だったということだろう。一九七八年に出会ったひとびとの中にもKCIAの要員がいたにちがいない。
 朴正熙が強力な情報機関を必要としていたのは時代背景を考えれば理解できる。北からのスパイが国内に浸透しているだけでなく、北の決死隊が大統領の官邸の近くにまで進出してくるような状況にあって、国家が生きのびるためにはインテリジェンスは絶対に必要な能力だった。
 一九六八年一月、北朝鮮軍の決死隊三十一名が韓国軍の制服を着て休戦ラインを越えた。彼らは民間人の服装に着替えて青瓦台に八百メートルまで接近したが警備の部隊と銃撃戦になった。その後の掃討作戦で二十九名が射殺、ひとりが自爆し、ひとりが逮捕されたとされている。
 このような状況下では朴正煕にとって北の脅威は抽象的なものではなかった。KCIAの暴力的な相貌は朴正煕が生きた時代の暴力性の反映で、朝鮮半島の置かれていた悲劇性の反映でもある。だがその後の時代の変化の中で、全斗煥時代に国家安全企画部に改称したKCIAは、金大中時代に入ると国家情報院に改組されてしだいに暴力的な性格を失っていった。

(つづく)