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[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

ドアの向こうに朴正熙がいた(2)

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2 尋問

 その後も質問は海の波のように引いては寄せてきた。恐らくこういった尋問の常套手段なのだろう、同じような質問がフーガのように繰り返される。
 質問は何人かの男たちから発せられた。わたしはひとつひとつ丁寧に答えていった。特に恐怖はかんじなかった。理由は簡単だった。彼らの疑惑を深めるような秘密を持っていなかったからだ。後ろめたくないからどんな質問にも答えられる。その意味ではわたしは自信満々であり、逆さにしても逮捕されるような証拠が出てくるはずがないことは、わたし自身が一番よく知っていた。

 しかし、時間が経過するうちにちいさな不安が生まれ、それがだんだん大きくなっていった。数人の尋問者を相手にしてよどみなく答えている。これはむしろ、危険な事態のはじまりではないだろうか?よどみのない返答は無辜の証明であると同時に完壁な準備と訓練の成果と見ることもできるのだ。
 その時までに、どうやら潜入してきた日本の過激派と疑われているらしいと想像がついていた。そして彼らが「インドから英国までの旅」についての質問を繰り返すところをみると、この旅に彼らの疑惑の原因があると思われた。

 彼らが関心を示した一九七六年から一九七七年にかけてのインドから英国までの旅とは、おおよそつぎのようなものだった。
 旅のきっかけはわたしの周囲でヒマラヤのどこかの山を登ろうという計画が持ち上がったことだった。その計画は頓挫したが、しかしヒマラヤでのトレッキングだけでも実現しようとプランを練った。結局、ネパールに行ってエベレスト街道(エベレスト南面への伝統的なルート)を歩き、プ・モリ(七一六一メートル)から下りてくる尾根の末端にあるカラパタールという丘(それでも高さは五五四五メートルある)まで行ったあと、イムジャ氷河を遡ってローツェ(八五四五メートル)の支峰であるアイランド・ピーク(六一六〇メートル)に登ることにした。それからインド、スリランカをまわり、アフガンスタンまで行ってからネパールに戻る計画だった。
 ところが旅の大半を終えてアフガンスタンに着いたとき、想像もしなかったことが起きた。わたしの買った航空券はアジアのある航空会社の発行した東京~カトマンズの往復だったが、カブールに着いた日に受け取った友人からのエアメールはその航空会社が倒産したことを告げていた。なんとかしてタイまで戻って新しい航空券を買うか、安い航空券が入手できるというロンドンまで行くか?結局ロンドンまで陸路でいくことを選択した。ヨーロッパに行けばアルバイトもできそうだった。
 ただし費用の問題だけで西に向かったのではなかったと思う。日本から遠く離れたアフガニスタンで帰るあてがなくなってしまった自分の境遇をおもしろがり、もっと遠くへと自分を追いやりたい、日本からもっと離れたいという衝動があった。
 その頃、トルコからイラン、アフガンスタン、パキスタン、インドを経てネパールまで、回廊のように連なるアジアの国々を細い糸のような陸の交通路が結んでいた。国境を越えて商売をする商人や、出稼ぎに隣の国に行くような人々のための交通路である。費用はきわめて安い。そうしたルートをヨーロッパやアメリカからやって来た貧乏旅行者の一群がインドや東南アジアを目指して移動していくのだった。
 できるだけ長く旅をつづけるために貧しい旅を選んでいた彼らにとってアジアへの旅の目的のひとつに麻薬があった。ネパール、インド、パキスタンあたりの安宿にはガンジャ(大麻のこと)の強い匂いがしみこんでいて、夜になるとその匂いはさらに強くなるのだった。
 わたしは彼らとは逆に川の流れを遡るようにしてロンドンを目指した。どの国にもある安宿を泊まり歩き、地元のひとびとが乗る乗り物に乗り、列車やバスを乗り継いで移動していった。ネパールから陸路でロンドンまで行くのには時間はかかったが、それほど困難な旅というわけでもなかった。
 もちろん危険がないわけではない。汚れたバックパックひとつで国から国へと放浪する貧乏な旅人はどの国でも疎まれ、差別される。外人のよく泊まる安宿では盗難が頻発する。貧乏人が貧乏人からわずかな金を盗むのだ。整備されていない道路を疾走するバスはよく事故を起こす。バスは増水したワジ(涸れ川)の茶色く濁った奔流を渡ったりもする。吹雪の雪原を走るときは視界が完全にホワイトアウトしてしまい、どこが道路かわからなくなる。山間部では山賊の襲撃を受ける地域もある。外人と見ると石を投げられることもある。
 アフガニスタンから見晴るかすロンドンはずいぶん遠かった。しかしとなりの町は決して遠くはない。そして陸路の旅というのは基本的にとなりの町への移動の繰り返しから成り立っている。となりの町への移動を繰り返すと、やがて大変な距離を移動してきた自分に気がつくのだ。そんな具合に尺取り虫のように移動をつづけているうちに、やがて気がつくと今まで見たこともない風土にいるのだった。
 一九七六年秋のインドではインディラ・ガンジーの強権が猛威を振るっていた。スリランカではタミル系ゲリラは蜂起していなかった。インドにも過激派はいた。ナクサライトと呼ばれる極左勢力がそれだ。一九六七年、紅茶の産地であり観光地としても有名な西ベンガル州ダージリン県にあるナクサルバリで最初の武装蜂起が行われたことから名づけられたというこの極左勢力は、紆余曲折はあったものの、暴力革命を掲げるグループが現在でも破壊活動をつづけている。
 一九七六年暮れのアフガニスタンは雪まじり。ソ連の戦車部隊はアム・ダリヤをまだ渡河していなかった。一九七三年にそれまでの王制がクーデターで崩壊したあと、新しい体制はソ連よりの政策をすすめていた。町ではソ連からきたひとびとを見かけたしキリル文字の看板も多かった。一九七六年から一九七七年にかけてのアフガニスタンはその後、現在までの長い期間にわたって失われることになる平和なアフガニスタン(傍点)の最後の瞬間だったといっていい。
 アフガニスタンでは翌一九七八年には軍事クーデターが起きて大統領一族が処刑され、共産主義の傀儡政権が樹立されて国名はアフガニスタン民主共和国に変更される。これに対してイスラム勢力が武装闘争を開始するとソ連が軍事介入して内戦はベトナム戦争のように泥沼化していった。ソ連軍は膨大な戦費と人的消耗に苦しんだ末に一九八九年に撤退するが、ソ連の崩壊にアフガニスタンでの消耗が大きく影響したという。その後もアフガニスタンは安定せずに現在にいたっている。
 一九七七年のはじめにはイランのパーレビ王朝は打倒されておらず、女たちはヴェールをかぶっていなかった。ギリシャは未だ軍事独裁政権が権力をにぎっていた。ユーゴスラビアパンドラの箱は閉じられたままで、チトーの下でセピア色に枯れて静かに眠っているように見えた。
 偶然はじまった無頼なヨーロッパへの旅だった。いつ終わるとも知れない。実際、日本への帰還は考えてもいなかった。

 尋問は二時間ほどもつづいただろうか。
 緊迫した空気がすこしずつゆるんでいった。
 男たちは目配せをしあい、尋問は終わる気配をみせた。
 「こちらへどうぞ」とエンジのジャンパーの男が言った。
 入管のカウンターまで戻ってようやく入国のスタンプを押してもらうと、次に税関のカウンターに行って荷物のチェックを受けた。驚いたことに税関の役人は荷物の中身をほとんど見ようともせず、かたちだけの検査で通してくれた。彼は疑っている様子もなく、むしろ面倒そうな態度で早々に検査を終えた。
 ジャンパーの男と一緒に外に出ると、彼はついてくるようにうながして歩きはじめた。小雨が降っている。彼は傘を差しかけてくれた。数分歩いて着いたのは入管の建物だった。まだ放免ではないらしいが、招き入れられたのは立派な応接室だった。ジャンパーの男が出て行くと、あとにはわたしひとりが残された。
 ふかふかのソファに埋もれるような姿で溜め息をついた。入管のカウンターにはじまって、ここに至るまでに十人以上の男が交代で質問を繰り返した。それなりに緊迫した時間ではあったけれども、わたしの旅行歴が疑惑を生んだとしてもそれは誤解である。事実、尋問は途中で打ち切られたようにみえる。おそらく疑惑は解けかけているとわたしは判断した。糊のきいた真っ白いカバーがかかったソファがずらりと並ぶ広々とした応接室。ここに通されたこと自体、その兆しではないか。
 疲れと空腹と眠気が一度にやってきた。そういえば東京を出て以来この二晩ともよく寝ていないし、きょうは朝から何も食べていない。

 …ソファに埋もれたままで眠り込んでしまっていたようだ。ドアが強くノックされると同時に背の高い制服の男が入ってきた。四十才すぎだろうか。ひきしまった体躯、精惇な雰囲気。入国管理事務所の役人の中でも高級な職位にちがいない。
 彼は日本語で「食事行きましょう」と言った。
 彼のあとについて部屋を出ると外には監視の者がいた様子もない。どうやら解放されるようだ。
 わたしを職員の食堂に案内すると彼は食事をおごってくれた。飯は職員が食べているものと同じであるらしかった。そこでも彼はいくつか質問をしたが、尋問ではなく世間話とでも言うような雰囲気だった。
 彼はわたしがなぜ疑われたのかを簡単に教えてくれた。
 まずパスポートのタイプの文字がおかしかったという。日本の外務省はこのようなタイプは使わないと彼は言った。言われてみればたしかに一般的なパスポートの文字とは違い、太めですこし滲んでいる。しかしそのタイプライターはニューデリー日本大使館で実際に使用されているものだ。インド製のタイプライターかも知れないではないか。
 次に彼が指摘したのは写真の検印の上下が逆だということだった。だがそう言われてもなんとも言えない。検印を押したのはニューデリー日本大使館の職員だから、その人物がまちがったのだろう。
 第三は彼らが繰り返し質問をしていた点である。インド、アフガニスタン付近は過激派養成の拠点になっているというのだ。
 そして最後に彼は「時期が悪かった」と言った。十月一日には国軍建軍三十周年のパレードがあるという。しかしそのこともわたしは知らなかった。
 アフガニスタンで密かに訓練を受けた日本人過激派が、国家的な行事の破壊を企てて潜入してきたというストーリーなのだろうか。わたしは三十才になったばかりだった。七十年安保の前後に盛り上がりをみせた日本の過激派とはほぼ同世代である。疑われるに十分な状況証拠にがんじがらめにされていたわけだ。

 入管の二階にある職員食堂からは窓の外に雨にけむったような釜山の町が見えた。遠くにみえる巨大なビルはホテルだろうか。高度成長をつづける韓国経済が窓枠のなかに見えていた。
 会話は途切れがちだった。向かいあって一緒に食事をしてはいるが、彼は国家権力であり、わたしはいってみれば被疑者でしかない。いまの瞬間に敵対してはいないが、友好的な関係とは決していえない。なによりも、わたしは自分のこれからの運命すらわからない宙ぶらりんの状態にいた。
 会話の接ぎ穂を探していた。彼にすりよりたいとは思わなかったが、その場の雰囲気をそれなりにやわらかくしたいという意識はあった。取り調べをつうじてストックホルム症候群に似た心理状態にあったのかもしれない。
 以前に新聞で読んだのを思い出して、「最近キムチが有料になったそうですね」と言ってみた。もともと韓国の食堂で出されるキムチは日本で言えばお茶のようなもので、いくらでも出てくるものだ。それが最近は有料のところが増えたというような内容の記事だった。
 男の表情が固くなった。
 「それはどこで知ったのか」
 「日本の新聞に書いてありましたよ」
 そう言ったものの、それから食事の間じゅうずっと彼の表情は警戒的だった。
 食事が終わると彼のオフィスまで一緒に行った。部屋全体を見わたす位置にある大きなデスク。そこの椅子に座るなり、彼は日本語で「ごくろうさん。もういいです」とわたしに言った。
 「これからどこに行きますか」
 彼が尋ねた。
 「晋州に行く予定です。それからは、三千浦、木浦、光州を回ってソウルに行くつもりです」
 「ここからだとバスがいいね」
 そう言うと彼は部屋の隅の壁ぎわにひとりで座っていた男を手招きした。それまで男がいることには気がつかなかった。それほど存在感の薄い男だった。いや、存在を消していたというべきかもしれない。
 「彼がバスターミナルまで送りますよ」
 小柄で痩せぎすで頭が禿げかかった、風采の上がらない中年の男。日本語は話さないらしい。黒っぽい背広はこの男には大きすぎ、しかもずっと着つづけているせいか、よれよれになっている。ズボンも靴もそうとうにくたびれている。ろくな学歴もないために出世の望めない人生を送ってきたにちがいない。
 男と出入国管理事務所の建物を出ると、小雨がやまず冷え冷えとしていた。タクシーでバスターミナルへむかう間、ふたりとも無言だった。となりに座っている男の正体は、そういえばわたしにはわかっていない。入管の職員かどうかもわからなかったが、わたしを監視しつつバスターミナルまで送るのが彼に与えられた仕事だというのは想像できた。
 バスターミナルへの道すがら、外の景色を見ていた。町はどれくらい変わっているだろうか。以前の記憶をたどって町の変化をたしかめようとしたが集中できなかった。
 バスターミナルに着くと男は両替してやろうかと身振りで示した。あわただしく出てきたので両替をするのを忘れていたのだった。彼はポケットからしわくちゃになった紙幣の束を取り出すと、わたしの差し出した一万円を両替してくれた。
 晋州行きのバスはエンジンをかけていてすぐにでも発車しそうだった。あわてて切符を買ってバスに乗り、窓の外に立っている男に手を上げると、彼もわかれのしぐさをした。バスが動き出してから振り返ると男がおなじ場所に立ったままでいるのが見えた。
 釜山を出発したのは午後二時半だった。バスは雨で濡れた高速道路に入ると西に向かった。立派な高速道路だが交通量はかなり少ない。道路の脇にはコスモスがいっぱいに咲いている。ピンク色のコスモスが窓の外を際限もなく流れていく。
 車窓からは新しく建てられたと思われる瓦屋根の農家が目についた。六年前には農家といえば茅葺きの印象があったが、今はほとんど見られなくなっていた。これが維新体制下ですすめられた農村近代化運動であるセマウル運動の結実なのだと思った。一九七二年の最初の韓国への旅ではセマウル運動がはじまったばかりの農村部を目撃したが、今またセマウル運動の成果を目の当たりにしていた。

 発車して一時間ほども経った頃だろうか、となりの席に座っていた若い男が遠慮がちに英語で話しかけてきた。学生だと言う彼はバスが発車して以来、となりにすわった日本人に話しかけたい衝動と戦ってきたのだった。そういう彼の気持ははじめから手に取るようにかんじていたが、ゲームにはやはりルールと言うものがある。
 旅人に話しかけてくる他人はコンビュータゲームに登場する謎の小箱のようなものだ。彼は詐欺師であるかも知れないし旅人を秘密の花園に誘う兎かも知れない。その人物を信じるかどうかは、結局のところ自分の直感と経験だけが頼りだ。わたしの場合はこういう機会をポジティブに受け止めてきて、その結果としていくつもの幸運にめぐり会ってきた。出会ったばかりの人物の家に泊めてもらったことも一度や二度ではない。
 旅人に話しかけてくる人物にまつわる悪い話を山ほど聞かされてきたし、危険は少なくなかったが、思いがけない体験は臆病からは得られないというのがわたしの考えだった。そしてわたしのカンはこの学生は信用できそうだといっていた。
 晋州のバスダーミナルに着くと彼は先に立って歩き出した。一緒に宿を探してくれるというのだ。韓国の田舎町はすこし退色したような灰色がかった町並みがつづいている。そしてわずかに埃っぽい。晋州もそうした地方都市のひとつだ。そんな町の大通りを、今し方知り合ったばかりの学生と歩いていく。町の人々はまったく興味を示さないが、彼らはわたしが日本人だとすぐにわかり、となりを歩く学生との関係をいぶかることだろう。
 晋州の市街地は南江(ナムガン)という大きな川の両岸にひろがっている。南江は洛東江(ナクトンガン)の支流のひとつだ。洛東江の源流は太白山脈にあって、安東盆地、大邱盆地を経由して南下し、は釜山の西で対馬海峡に注いでいる。一方、南江は晋州から東に流れて洛東江に合流している。バスターミナルは南江の南側にあり、国鉄の晋州駅もその近くにある。旧市街は川の北側にあり、川沿いには有名な晋州城跡がある。

 彼が案内してくれたのは旧市街地にある韓国式の旅館だった。建物は古い平屋で中庭があり、客の部屋や旅館の住人の部屋が取り囲んでいる。宿の主人は突然訪れた日本人に面食らった様子だったが、学生の説明を聞くとうなづいて部屋に案内してくれた。質素だが清潔な部屋。学生も部屋まで入ってきていろいろと説明してくれる。
 荷物を部屋に置くと彼とふたりして町の散策に出かけた。町を歩きまわり、学生と別れて宿に戻ったのは夜七時を過ぎていた。主人が笑顔で迎えてくれる。
 その夜は決して豪華ではないがにぎやかな夕食だった。皿数の多さは韓国の食事の特徴といっていい。食卓いっぱいにたくさんの漬物や煮魚が並べられた。部屋に度々出入りしては、主人は何くれとなく面倒を見てくれる。いかつい体躯の男だがこころやさしい気性が見て取れた。
 食事が終わる頃、脇に座って食事を見守っていた主人がおずおずと話しはじめた。日本語だった。訥々と、しかし懸命に思い出しながら、彼は日本語を絞り出そうとしている。
 「むかし習ったんだけど…もう忘れて…うまくないです」
 「そんなこと、ないですよ。上手です」
 「いや…だめ…ずっと使ってないですから」
 どこから来たか。なぜ、この町に来たか。明日はどこに行くのか。旅人は旅程を説明するだけで会話をつづけることができる。そうした会話が無意味かと言えば、そうとも思われない。どこからきたか。どこに行くのか。旅が長ければ長いほど、その問いは重みを増していくものだ。
 そんなふうにして話すうちに、主人の日本語に命が吹き込まれ、少しずつ滑らかになって行くのを魔法を見るようにして見ていた。彼のことばはゆっくりと、だが確実に、輝きを増していった。そして彼の目もまた輝いている。何かが彼のこころの中で起こっている。頑強な体格の初老の男が、正座して頭を拳骨で叩きながら、古い昔に習って忘れてしまった日本語を懸命に思い出そうとしている。年令からしても植民地時代に日本語教育を受けた世代だ。しかし敗れた日本がこの町を去ってからの何十年、この人物が日本語を話す機会はたぶんなかったにちがいない。
 主人と話しつづけて夜の十時をすぎた頃だった。突然、ふたりの男が現れた。
 「臨検」
 背の低い中年のほうが廊下に立ったまま、部屋の中に座っていたわたしを見下ろして言った。その男の背後に背の高い若い男が庭の方を見るような風情で立っている。刑事にちがいない。宿の主人は硬直して座ったままだった。
 中年の刑事は部屋に入ってくるとわたしの前に膝を触れるような距離で座り、主人のほうを向いて何ごとか尋ねた。主人は哀れなほどに脅えていた。そのあいだ、若い男は廊下であぐらをかき、真っ暗になった中庭を見渡している様子だ。しかし彼が見ているのが庭ではないことは明らかだった。
 主人との話が終わると中年の男はわたしを見据えてゆっくりと言った。
 「どこから来ましたか」
 日本語だった。
 「釜山からです」
 「これから何処に行きますか」
 「明日は三千浦。そのあとは木浦、光州などに行くつもりです」
 「そう。ここからならバスがいいね。簡単だよ」
 「ええ。そうするつもりです」
 「ところで、あんた英語うまいらしいね」
 「…」
 かたかた。かたかた。
 正座して座っていたわたしの膝が震えはじめた。
 かたかた。かたかた。おもしろいように震えている。だが耐えようとしてももはやわたしの膝ではない。わたしの言うことを聞いてはくれない。わたしは怯えている。自分自身を不思議な生き物のように見ながら、もうひとりの自分が言った。
 彼らが部屋にいた時間は長くはなかった。ひっそりと座ったままでわたしを見据え、いくつかの質問を追加したあと、彼らは三千浦への行き方をこまごまと教えてくれ、そして帰っていった。あとから考えればそれは取り調べではなくて雑談のようなものだったかもしれない。しかし宿の主人は明らかに憔悴しきっていた。そして二度と目を合わせようとしなかった。

 主人がいなくなってから布団を自分で敷いてその上にごろりと横になった。部屋の電気を消す気にならなかった。蛍光灯の白い光が目を射る。からだの芯まで疲れているにも関わらず、神経がたかぶっていてギラギラしている。
 どうやら取り返しのつかない事態に陥りかけているらしかった。この旅のはじまりが暗示していたものの正体がようやく開示されたことに気がついた。東京駅を『あさかぜ1号』で出発したタ暮れから胸が騒ぎ、不安が離れなかった。不眠の夜をすぎて下関に到着しても、だるい体に不安が重くのしかかっていた。海峡をフェリーでわたる夜も、煌々と海を照らす漁船の明りを見て不安ばかりが育った。それは今日のできごとを予感した不安ではなかったか。
 悪い状況にいるときには、そこから抜けだそうとあれこれ考えること自体が自分を支える。わたしはにわかに分析的になり、状況をできるだけ客観的に分析して打開の方策を考えようとしはじめた。
 まずは冷静に状況をつかもうとした。論理的に考えればわたしは何もしていないから、そのことがわたしの安全を保証するはずだ。彼らが調べれば調べるほどわたしの安全は保証されるはずだ。パスポートは「インド製」だが、在外公館がパスポートを発行するのは通常の業務の一環だ。そのことを疑われる筋合いはない。
 そう思ってみればいくつかおかしな点がある。まず身体検査すらされなかった。普通だったら所持品の検査をするだろうし衣服を全部脱がされもするだろうが、税関を通る時ですらその検査はおざなりなものだった。所持品の中で彼らの手に渡ったのはパスポートだけで、その他の持ち物はわたしの手を片時も離れたことがない。なぜ身体検査をしなかったのだろうか?そこまで疑っていなかったのだろうか。
 しかし。と、もうひとりのわたしが言った。出入国管理事強所から警察に連絡したのはたしかだ。さっき来たのは地元の警察だろう。彼らはわたしに関する詳細な報告を持っていることをほのめかしていった。自分についての情報がいくつもの脂で汚れた指で触れられたのだ。
 もう一度かんがえた。なにもしていないことがわたしの安全を保証するだろうか。わたしの勘によればその点については懐疑的にならざるをえなかった。調べても何も出てこないということは、その人物が無実であるか、調査する側の能力を越えるほどに高い能力を有する組織の挑戦であるか、そのどちらをも意味するのだと再びかんがえた。いずれにせよ、猜疑心を職業上の美徳と見なしている連中から見て、わたしがあらぬ妄想を育てる厄介な被疑者であることはたしかなようだった。
もう一度、今日のストーリーを反芻してみた。入国審査の役人に韓国語で挨拶したのが災難のはじまりだった。しかし、わたしが何らかの工作を企てていたとしたら、そんなときに韓国語で挨拶をするだろうか?しない。と、もうひとりの自分が言った。彼らの問いに対して英語で返事したが、そのこともまた疑われた。日本人で英語ができるのは変だということだろう。我が同胞たちはずいぶんとなめられたものだ。
 わたしの旅の履歴。これはたしかに普通ではない。学生でもないのに半年にわたって南アジアからヨーロッパまでの陸路の旅をするなどと言うのは普通ではない。三十代に至っても将来を見定めることができない自分を、その時はじめて少しだけ悔いた。部屋の周囲は物音もしない。おそろしいほどの静けさ。自分があまりにも無力であり、日本に逃げ帰ることもできないという境遇がしめつけるように迫ってくる。どうしたらいいのか。
 だが考えることに没頭するうちに恐怖は薄まっていった。その時までにいくらか落着きを取りもどしていたわたしは旅をつづける気になっていた。自分が無実だということに自信を持っていたが、現実的な解として、釜山の日本領事館に連絡をとろうと思った。それまでの旅の経験のなかで日本の在外公館に対する個人的な印象は悪くなかった。大使館気付で郵便を受け取ることができたし大使館に備え付けられた伝言箱のようなしくみを使ってほかの旅行者とメモを交換することもできた。だからアジアからヨーロッパへの旅の途上で、必ず日本の大使館に立ち寄ることにしていた。ある国の大使館員は宿の宿泊料金を払った払わないでトラブルになったわたしのために、こちらの主張を現地語に翻訳して長い手紙を書いてくれた。そんなことも背景にあったから領事館に連絡しておこうと思ったのだった。
 ただしそれは助けてくれということではなくて、こういう状況に遭遇したという事実の報告の意味あいが強かった。その後に事態がもっと悪くなったときのための保険あるいはリスクヘッジというのが正確なところかもしれない。領事館に自分の状況を伝え、日本という国家がわたしの状況を情報として持っていることが安全を保証する一番いい方法のように思えた。
 そこまで考えて一息ついた。ひどく疲労しているのがわかった。恐怖は体の隅に未だに巣食っていたが、まあなんとかなるだろうと思い、淵に引きずり込まれるように眠りに落ちていった。

(つづく)