[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

ドアの向こうに朴正熙がいた(1)

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プロローグ

 二〇一三年二月、パク・クネ(朴槿恵)が大韓民国の第十八代大統領に就任したというニュースを聞いたとき、のちに文世光事件と呼ばれることになる大統領狙撃事件で射殺された母親のユク・ヨンス(陸英修)の葬儀に参列した彼女の姿を思い出した。
 陸英修が撃たれたのは一九七四年。大学を出てフランスに留学したばかりだったパク・クネは急遽帰国すると母親に代わってファースト・レディ役を務めることになった。その五年後の一九七九年にパク・クネの父親で大韓民国の大統領だったパク・チョンヒ(朴正熈)も射殺される。それからながい時間が経ち、大統領として政治の表舞台に現れたパク・クネはすでに六〇歳になっていた。
 ニュース映像の中のパク・クネを見ながら感じたのはまず時の流れそのものだった。時の流れは大学を出たばかりの娘を、四〇年を隔てて六〇歳の女性大統領に変える。
 それから朝鮮半島の現代史の激烈な歩みだ。戦後の韓国でパク・クネ以前に大統領を経験したのは臨時代行などを除けば一〇人いるが、そのうち初代のイ・スンマン(李承晩)は失脚・亡命、ユン・ボソンはパク・チョンヒ(朴正熈)によるクーデターによる失脚、パク・チョンヒ(朴正熈)は部下に射殺された。チェ・ギュハ(崔圭夏)はチョン・ドゥファン(全斗煥)らによる軍部クーデターにより失脚。チョン・ドゥファン(全斗煥)は退任後に逮捕され死刑判決(のちに特赦)。ノ・テウ(盧泰愚)は退任後に懲役刑(のちに特赦)。ノ・ムヒョン盧武鉉)は退任後に捜査を受け自殺。キム・デジュンは大統領になる以前、日本滞在中に拉致されて殺害される寸前まで行った。荒ぶる歴史と言っていい。
 ニュースを見ながらパク・クネの父親のことを考えていた。朴正熈が政権を握っていた時代の韓国で経験したその荒ぶる時代の手触りのようなものが今だにわたしの内部に残っている。

 

1 旅のはじまり

 一九七八年九月二十七日の朝九時すぎのことである。
 前日の夕刻に東京駅を出た寝台特急あさかぜ1号』が下関駅に到着してプラットフォームに降り立った瞬間、蒸せたような生暖かい空気に包まれた。ポロシャツ一枚でいても汗ばむような曇り空の朝だ。
 『あさかぜ』はいわゆるブルートレインのひとつで、一九七八年にはすでに山陽新幹線が開業していたから寝台特急に乗る必然性はなかったが、その時代遅れでロマンチックな雰囲気を好んでいたわたしは迷うことなく『あさかぜ1号』を選んだのだった。
 しかし期待はすくなからず裏切られていた。楽しみにしていた寝台特急の旅だったが夜通しよく眠ることができなかった。そのせいで体がだるく、濃厚な疲労感があり、一方でなにか息が詰まるような、あるいは息を吐きすぎるような感覚があった。理由のわからない、得体のしれない不安にとりつかれていたが、それはこれからはじまろうとしている旅に対する不安のあらわれだったかもしれない。
 下関に来たのはその日の夕方に出航するフェリーで釜山(プサン)にわたるためだった。だから意識はすでに異郷に向いており、下関ではするべきことが見つからなかった。駅前に立ってすこしのあいだ思案していたが、まだ朝だというのにフェリーが出港する夕刻までの長い時間をどう過ごすかにうんざりしていた。結局は手近な喫茶店に入り、腰をおろすとようやくほっとした気分になった。
 持ってきた荷物はごくわずかだった。パスポート、フェリーの切符、そして旅行ガイドのほかにはわずかな衣類くらいでカメラも持っていなかった。いまでも不思議に思うのだが、カメラを持たないほうがいいという漠然とした予感があった。荷物が軽いのは旅には便利だが、あとから思い返してみても異様なきりつめ方だった。
 パスポートを取り出してページをめくってみる。
 ずいぶんたくさんのスタンプやビザ。これまでの旅の痕跡をみるのはなかなか楽しいが、海外に出ればこの小さな冊子がわたしの存在を証明する唯一の書類ということになるのだと、ひとごとのように考えていた。
 日本のパスポートにはつぎのように書かれている。

 「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」

 保護と扶助。
 その言葉の具体的な意味について考えたこともなかった。

 韓国に渡ってからの旅程は特に決めていなかった。
 釜山から朝鮮半島の南西部にあるチンジュ(晋州)、サムチョンポ(三千浦)、モッポ(木浦)、グヮンジュ(光州)といった地方都市をめぐってソウルに行こうと一応は考えていたが、これといった目的もなかったし、すべてが行き当たりばったりになりそうだった。
 わたしが旅しようと考えていた地域は行政区分でいえば慶尚南道全羅南道にあたる。以前の旅では慶尚北道江原道、ソウルを通過していたが半島の南西の地域はわたしにとっては空白地域だった。釜山は韓国で二番目に大きな都市で、旺盛な活力に溢れた港湾を抱いた港町。晋州は釜山から西に高速バスで二時間ほど行ったところにある地方都市。更にその先にある地方都市を列車やバスでのんびり回っていこうと考えていた。

 韓国は二度目だった。
 六年前の一九七二年三月におなじ関釜フェリーで韓国に渡ったことがあったが、それが最初の韓国への旅で、わたしにとっては最初の外国でもあった。その半年後には十月維新があり、すでに大統領になっていた朴正煕は独裁色を更に強めていった。
 最初の渡海のときの対馬海峡は荒れていた。下関を出航したフェリーが大小の船で混雑する関門海峡を出て玄海灘へと進むにつれて波が高くなり、じきに船はローリングとピッチングを混ぜたような荒々しい揺れ方をするようになった。
 二等船室にいたわたしは吐きつづけて胃の中が空っぽになり、胃が収縮してねじれ、あとからあとから吐き気が襲ってきて、しかし吐くものはもう何もなかったので吐く動作だけが発作のように繰り返された。パントマイムのように滑稽な姿だった。
 その夜、対馬海峡のあたりを二つ玉低気圧が通過しているらしかった。四千トンのフェリーは時々海面を横滑りするような揺れ方をした。巨人の手がわたしたちの運命を弄んでいる。
 深夜になる前にあたりは少し静かになり、やがて嵐は遠のいていった。深夜の零時をすぎた頃、船が停止したので消耗しきった体を他人のからだのようにかんじながらデッキに出てみると、フェリーは釜山の港の中に投錨して静かに停泊しているのだった。
 乗客はみな寝入っている。デッキはしんとして、ことりと物音がすることもない。舷側を時おり波が洗うが、その音はひそやかだ。目を陸(おか)の方にやると、わずかに港の明りが見えた。一列にならんだ白いちいさな点は街路灯にちがいない。しかし町は黒く沈み込んでいてひとの動く気配はまったくない。
 一度死んでしまい、あっちの岸からようやく生きて帰ってきたような気がした。ひどい船酔いが自分が生まれて育った国からこの国への旅をふたつに断ち切ってしまったように思えた。
 釜山に上陸したときの第一印象はよく憶えている。
 すこし歪んだレンズを通して景色を見ているような気がしていた。景色が歪んで見えるばかりではない。あたりにひしめいている韓国の人々もまた、歪んだ景色の一部だった。
 歪んでいるという意味はこうである。
 景色は日本のものではない。どこか日本に似ているが微妙に違う。その違いをひとつひとつ挙げていけば疑間は解けるのかもしれないが、どれが同じでどれが違うと指摘されて納得するようなたぐいの疑問ではない。人々の顔や体格や肌の色は日本人に似ている。しかし日本人ではない。その時かんじたのは、たしかに似ていることから来る困惑だった。
 徴妙な歪みの感覚は時間の流れ方にも由来していた。昔の日本に来た気がした。似てはいるが違う人々。すこし過去を流れている時間。眩暈がするようだった。
 このときの旅の目的は朝鮮半島の背骨にあたる太白山脈の最高峰である雪岳山(ソラクサン)に登ることで、わたしはちいさなパーティの一員として韓国に渡ったのだった。雪岳山の標高は一七〇八メートル。日本でいえば奥秩父のような山容で森林でおおわれているが、花崗岩のするどい岩峰も多く、その景観は山水画を思わせる。
 釜山からソウルに行き、東馬場(トンマジャン)のバスターミナルから百譚寺(ペクタンサ)までローカルバスに乗った。そこから歩き始め、山中の仏教寺院に一泊したあと、山頂を踏んで日本海側に下りた。
 登山行動を終えて仲間たちが帰ったあと、ひとりで釜山に戻るとそこはもう懐かしくて勝手のわかった町のように思われた。
 釜山は南の商都であり、人々のしゃべり方は早口でロ調は多少荒い。町は灰色の質感が圧倒的だ。港の背後にはいくつもの丸い丘があってその上には貧しい人達が住んでいる。海面に近い、低いところには繁華街がある。
 とくに目的もなかったが帰るのが惜しかったから韓国式の安宿に泊まり、ずるずると居つづけた。ビザは十五日の滞在を許していたが期限が迫って来たので出入国管理事務所に行った。ビザの延長をしたいと片言の英語で言うと、こっちへ来いと言われて通されたのは幹部職員の席だった。よく肥えた彼は英語で「延長したい理由を言いなさい」と質問してきた。わたしはたじろいで「もうちょっと観光をしたいもので…」とロ籠もるしかなかった。すると「ステートメント」と最初に応対した所員が言った。英文で滞在延長の理由を書けというのである。その場でなんとか文章をでっちあげて提出すると、読むなり所長は鼻先で笑ったものの滞在延長は許可してくれた。次に彼は「インジ、インジ」と言う。インジとはなんのことか?考えていてふと気がついた。印紙を買って来いと言っているのだ。こうしてさらに十五日の滞在が認められたわたしは意気洋々と宿に引きあげた。
 光復洞(クヮンブクトン)から少し入った龍頭山公園の足元にある宿に戻ると、女将や働いている皆が滞在延長を喜んでくれた。実際、わたしは何日か泊まるうちに彼らから家族のような待遇を受けていたのだった。
 女将は四十代だっただろうか、片言の日本語を話す水商売上がりといった風情の女だった。会話学校に行って日本語を習ったという彼女はわたしの部屋にやって来ては長い時間座り込んであれこれ世間話をしていくのだった。話の内容は自分がはじめようとしている小さな事業のことであったり、景気のことであったり、日本と日本語についてであったりした。
 旅館にはいろいろな人物が出入りしていた。
 女将の知り合いの若い女が時々遊びにきた。彼女は女将がはじめようとしている喫茶店で働く予定だといい、それまでは男の相手をして稼いでいるのだった。日本人の相手もするのだろう、簡単な日本語を話した。
 宿には六十代と思われるおばさんもいた。彼女は日本人に警戒心を持ち続けているようで、親切に身の回りの世話をしてくれたものの、決して心は許さないぞといった雰囲気がありありと感じられた。
 その宿はいわば商人宿であり、客は常連ばかりのようだった。その中でわたしは奇妙な存在であったにちがいなく、泊まり客が部屋を覗きに来たり(実際に部屋の引き戸を細めに開けて覗くのだ)、誰かの知り合いらしい女子高生がなぜかいつまでもわたしの部屋にいたりした。
 迷いこんできた日本人の学生は彼らにとって恰好の話題であり、遊び道具であり、好奇心の対象になっていた。宿の人々はわたしの部屋をサロンのようにして使ったし、来客までもがまるで交差点のように行き来した。なにやらわたしはそのあたりにいる人々と肌すりあわせて過ごしていたわけである。
 だれもがまったくの庶民だった。その当時の韓国の庶民の実態が目の前で展開されていてそれらにわたしは素手で触れていたし、彼らはわたしに素手で触っていた。
 あるとき女将が魚を食べに行こうと誘ってきた。ようするにたかろうという魂胆だ。この頃の韓国の一人あたりGDPは日本の三分の一くらいだったはずだ。
 タクシーで影島(ヨンド)の向こうにある漁港まで行った。宿の前の路上で煙草屋を営んでいる女も一緒だった。彼女はマッチ箱のような(日本で言えば宝くじの売り場のような)売店を宿の前に構えていて、わたしもそこによく買いに行っていた。
 ふたりは仲のいい中学生のように腕を組んで港に突き出た防波堤の上をはずむように歩いて行く。そのあとを海風に吹かれながらついて行った。
 防波堤の上に粗末な小屋が並んでいて、漁師の奥さんたちが獲物を金盥に入れて売っている。食べたいものを指差して選んでから小屋に入って待っていると、たちどころに調理して運んできてくれる。わたしたちは巨大なアナゴと赤貝を選んだ。
 まず穴子の血がグラスになみなみと注がれてきた。わたしは遠慮したが彼女たちは嬉々として飲み干した。そしてアナゴの刺身と赤貝。たっぷりと刺身を食らい、韓国製のビールOB(オリエンタルビール)を何本か空けて昼間だというのに機嫌がよくなった三人は、またもタクシーに乗って帰還するのだった。
 夜は町を歩いた。
 夜の釜山は深海の底のようだった。裸電球がきらめき、屋台が並び、ひとびとのざわめきが波のように押しよせてくる。この景色は昔どこかで見たに違いないと思った。小さかった頃に池袋の駅前にまだあった闇市の名残り。あれに違いない。その後、いくつかの国を訪れるようになって、異国の旅は時間の旅でもあると思い知ったのだが、その感覚に最初に出会ったのが釜山だった。
 港町というのはなかなかいいものだと思いながら町を歩き回った。開かれている。浮気だ。深刻にはなりたくない。流行(はや)りには敏感だ。キザで見栄えも気にする。浪費的で享楽的。別れるさびしさに慣れている。…
 あるとき町の食堂に入るとテレビではプロレス中継をやっており、何人かの男の客が見入っていた。日本人の悪役が卑怯な手を次々と繰り出して韓国人のレスラーをいじめ抜く。耐えていた彼は観衆の大歓声のなかでようやく立ち上がると怒りをあらわにし、反撃にうつる。食堂の客たちは身を固くして画面を凝視している。
 悪役の日本人をやっつけている韓国人レスラーに見覚えがあった。日本では大木金太郎というリングネームを持つレスラーである。彼が韓国ではキム・イル(金一)と名乗る国民の英雄であり、大衆に代わって日本への恨みを晴らしていることをそのときはじめて知った。
 前の席でテレビを見ていた客の椅子の足がわたしに触れた。シルレ・ハムニダ(すみません)と男は振りむいて詫びを言い、うしろに座っているのが日本人である事に気づいた。しかしわたしは袋叩きにもされず、むしろ男の恐縮したような背中を見つづけることになった。大木金太郎は当時四十九歳。全羅南道出身で、力道山に憧れて一九五八年に日本に密入国し、力道山の政治力で日本滞在を許されたという彼は、日本と韓国を行き来しながらリングに上がっていた。
 子どもの頃にプロレス中継で力道山を見たことがあった。当時のプロレス中継はテレビ放送における人気の番組のひとつであり、すべてが生中継だった。個人でテレビを見る視聴行動が生まれていない時代だったからテレビの前にはいつも家族の全員がいた。アメリカ人の悪役を空手チョップでやっつける力道山に当時の日本人はカタルシスを味わったはずだが、その彼も大木金太郎朝鮮人であることを当時のわたしは知らなかった。プロレスが台本のあるショーであることをかんじてはいたものの、ときに予定外の血が流されることもあって、その危うさに惹きつけられるという側面もあった。

 夕刻、下関を出港した。
 ありとあらゆる種類の大小の船で賑わう関門海峡を抜ける間、海は静かだった。だが六年目の旅の記憶があったから、外海に出れば揺れが強くなるはずだと思い、覚悟を決めてデッキの風に吹かれていた。
 だが玄海灘に入っても海は静かなままだった。あたりは暗くなり、二等の船室は客の寝息が聞こえるほどになった。夜が更けていき、横になったまままんじりともせずにいると、窓の外が奇妙に明るくなった。気になってデッキに出ていくと、油を流したように静かな海面をフェリーは滑るように進んでいて、周囲の海上には無数の漁船が漂泊しているのだった。漁船にはどれも人影が見えない。しかしそのそれぞれに巨大な照明灯が鈴なりになっていて、海面を真昼のように照らしている。
 船団の只中を抜け出るとまた闇が訪れた。曇っているのだろうか、星は見えない。ゆれに悩まされることもなく深夜の釜山港の沖に到着するとフェリーは錨を下ろした。

 

2 上陸

 朝八時すぎ。フェリーは港内の投錨位置を離れて岸壁に横づけした。
 デッキから見る釜山の町は六年前とはずいぶん変わっているように思われた。フェリーターミナルの建物は立派になり、巨大化していた。丘に目をやるといくつかの高層の建築が見えた。曇り空の下でも、かつては灰色だった町並みが以前よりも明るい色調に覆われつつあるのがはっきりとわかった。
 船を下りた乗客たちはイミグレーションにむかう。列をつくってパスポートのチェックを受けている最後尾あたりにならんだ。
 わたしの番になった。
 カウンターの前に立ってパスポートを差し出すと「アンニョン・ハシッムニカ」と係の役人に言った。ちょっとしたあいさつのつもりだった。
 それを聞いた瞬間、うつむいて入国ビザのあるページをのぞき込んでいた役人の顔がこわばった。痩せて筋張ったかんじの男だった。顎が張っていて太い黒縁の度の強い眼鏡をかけている。レンズがずいぶん分厚いなと思いながらその表情を見ていた。彼はなにか書類を引っ張り出すと、あわただしくあちこちページをめくっている。かなり焦っている様子だ。
 何分か経った。ようやく顔を上げると、彼はすこし待てと手で合図して席を立った。取り残されたわたしは急に不安になっていた。なにかが起こったのはまちがいない。疑われているらしいことは雰囲気から読み取れた。しかし理由はなんなのか。思い当たることはなかった。わたしの素性にもパスポートにも問題はないはずだった。

 フェリーの乗客たちが入国審査を終えて立ち去り、あたりに人影がまばらになった頃、小肥りの男がこちらに向かって歩いてきた。手にわたしのパスポートを持っている。さきほどの入国審査官が彼に従っている。
 男はエンジ色のジャンパーにグレーのズボン、黒の革靴。髪は短く刈り込んでいた。
 彼は英語で穏やかに切り出した。
 「失礼ですが、韓国ははじめてですか?」
 物腰は柔らかいが、威圧的なものが隠れているような気がした。
 いえ、二度目です。わたしは丁寧に応答した。
 「ご職業は?」
 わたしは口ごもった。仕事を辞めて旅に出たのでそのときは無職だった。しかし無職では疑われるに違いないと思い、とっさに前の職業をロにした。
 男は、なるほど、という感じでうなづくと、次の質問をした。
 「ところで、いろいろな国に行っていますね」
 「はい。旅行が好きなので」
 男はパスポートのページをめくりながらスタンプを確かめているようだった。
 わかりました、では行って下さい。と彼が言うと期待していたのが裏切られたのは一瞬の後だった。
 彼は「こちらに来て下さい」というと、入国審査カウンターのむこう側ではなく、脇にあるドアの方へ、自分から先に立って歩きだしたのである。
 取調べがはじまるのだぞ。と、誰かが宣告した。

 通されたのはずいぶんと細長い部屋だった。応接室のようだ。白いカバーのかけられたソファがいくつもつないで置かれた低いテーブルを囲んでいる。そこに五、六人の男女が立ったままで待ち構えていた。おそらく彼らの全員が入管の職員と思われた。
 わたしが腰を下ろすと、エンジのジャンパーの男がとなりに座った。他の男女はわたしたちをU字型に取り囲むように立ったまま見下ろす恰好になった。その中のひとりの女が手にメモ帳を持ち、一言ももらさずにメモをとるぞという意気込みで待っている。
 尋問のはじまり。と、誰かが囁いた。
 質問が次々に飛んできた。英語だった。主にエンジのジャンパーの男が質問し、わたしが答える。わたしたちの問答を注意深く聞いている他の職員が、わたしの応答の隙間に潜む齟齬を発見し、そこを突破口にして正体を見破ろうという作戦のようだった。
 「いろいろな国に行っていますね」
 「ええ」
 「旅行の目的は何ですか」
 「観光です」
 「観光…ずいぶん長い観光ですね」
 「ええ。インドには遺跡を見に行きました。アフガニスタンやイランにも、同じ目的です」
 「職業は?」
 「××の関係です」
 「よく休みが取れましたね、こんなに長い旅行で」
 「辞めて行ったわけです」
 「こちらには知人はいますか?」
 「特にいません」
 「身元を証明するものは?」
 「特にありません」
 「インドから英国まで旅行していますね、一九七六年から七七年にかけて。その時の資金はどこから出たのですか」
 「資金!貯金からです。たいした金額じゃないし」
 「そんなことはないでしょう。ずいぶんかかったんじゃありませんか」
 「いや。日本円にして百万くらいでしょうか」
 「全部で?」
 「そう」
 「信じられませんね」
 「事実ですよ」
 「パスポートはインドの日本大使館で発行されていますね?なぜですか」
 「旅行中にパスポートの有効期限が切れそうになりました。それで、ニューデリーで更新したんです」
 「旅行の目的はなんですか」
 「お答えしたでしょう」
 「目的は何ですか?」
 「観光です」
 「ただの観光で?」
 「その通りです!」
 「韓国へははじめてですか?」
 「二度目です」
 「前回はいつ?」
 「一九七二年の冬、やはリフェリーで釜山に上陸しました」
 「目的は?」
 「登山です」
 「登山…」
 「雪岳山(ソラクサン)に登りに来たのです」
 「誰と来ましたか」
 「友人とです」
 「英語がうまいですね」
 「うまくはありませんよ」
 「どこで習いましたか?」
 「旅行中に自然に覚えました」
 「日本人は英語が下手ですね」
 「そう思います」
 「…あなたには特別な感じがある」
 「そんなことはない。ただの旅行者です」
 「(パスポートのスタンプを見辛そうにしながら)・・・このスタンプは?」
 「見せて下さい…これはアフガニスタンですね。入国の時のです」
 「テープレコーダーを持っていたんですか?」
 パスポートには、アフガニスタンの税関吏によって「テープレコーダーは持ち出すこと」といったような但し書きが記載されていた。
 「ええ」
 「使用目的は?」
 「音楽を聞くためですよ」
 別の男が意気込んで、しかし緊張気味に口を挟んできた。
 「共産圏には行ったことがありますか?」
 尋問にしては早口だし、口調に威圧感が足りない。こいつは慣れていないなと思いながら答える。
 「いえ、ありません」
 「中国には?」
 「ありません。ところで、なにか問題があるのですか? 質問するのはなぜですか?」
 答はなかった。

(つづく)