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[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

マスクの時代

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 亡くなった母親がかなり高齢になった頃、結核に罹って隔離された病棟で何ヶ月か過ごした。結核菌で汚染された隔離病棟の空気を健常者は吸ってはならないから、病院のスタッフや見舞いで訪れる人間は結核菌の通過を防ぐ特別なマスクを装着してから病棟に入る。N95という米国労働安全衛生研究所の規格で作られたマスクで、微粒子を捕集する強力なフィルターを備えている。結核菌の形状は細長い円筒形で直径がだいたい〇・三ないし〇・六μm程度だが、N95の規格に適合したマスクは空気動力学径が約〇・三μm マイクロメートル)の粒子を九十五パーセント以上捕集できる。
 N95マスクを装着する時は後頭部にゴムのバンドを回してマスクの縁を丁寧に顔の曲面に合わせる。すき間があると高性能のフィルターも意味をなさないからだ。内側は口に接触するのではなくていくらか空間が確保されているが、最初はちょっと息苦しい感覚がある。
 マスクを装着してから二重のドアを通って病棟に入り、母親のいる病室に行ってマスクを通したくぐもった声で話しかける。部屋にナースが入ってきて少し話をする時、顔の大半をマスクで隠している彼女が微笑んでいるのが目の表情で確認できる。お互いにそうなのだ。隔離病棟の内部で唯一マスクが要らないのは病院スタッフが詰めている部屋だが、そこは病室に包囲された防疫的な要塞といっていい。
 結核菌が浮遊する病棟の空気は触れてはいけないもの、吸い込んではいけないもので、一種の毒という意識があった。結核病棟の特殊性がN95マスクに象徴されていた。マスクは結核病棟の閉鎖的な空間の中でのみ必要な装備であって外の世界は基本的に清浄である。だがそれもしだいに慣れていくとマスクは日常になり、装着していることすら忘れそうになる。

*  

 阪神淡路大震災から二ヶ月半が経った一九九五年四月のはじめに神戸に行くことになった時、住吉駅の近くで被災した知人に電話したら防塵マスクを持って来るように言われた。その頃の神戸では至るところで建物を取り壊しており、大量の粉塵やアスベストの微細な繊維が大気中を舞っていたから本格的な防塵マスクをして町を歩いている人が少なくないという。半信半疑だったが工業用の一番メッシュの細かい防塵マスクを持って行った。
 神戸を訪れた日、新幹線は大阪までだったのでJRの新快速に乗り換えた。その日は新快速が芦屋まで開通した日だった。芦屋で降りて駅の海側への階段を下りはじめた時、防塵マスクをした人が上がってきた。それがその時点での日常的な光景であったのは間違いない。その後も町では防塵マスクの人をしばしば見かけたが、大多数のひとたちは慣れっこになったのか裸の喉を晒して歩き回っているのだった。
 震災からすでに二ヶ月半が経過しており、町には日常と非日常が共存していた。商店は普段通りに店を開けていたし盛り場は賑わっていたが、一方で鉄道の高架橋は落ちたままだったし、傾いたビルのいくつかはそのままになっていて特に通過が禁止されているわけでもなくて、その脇をひとびとは普段と変りなく歩いていく。
 神戸では被災した知人の何人かに会った。彼らの語る被災の記憶が生々しかったので鳥肌が立つのを感じることもあった。地震を体験した人たちは地震前の自分との間に一線を引き、否応なく地震後の日々を生きていることがわかった。
 印象深い神戸滞在だったが、わたしにとって震災後の神戸との最初の遭遇ではなかった。その一ヶ月半ほど前の二月一五日、広島の平和記念資料館を訪れたその足で神戸に向かった。この時点では新幹線は姫路まででその先は在来線が動いていた。快速の行き先は神戸駅である。車内にはリュックサックを背負った人が少なくなかった。
 明石を過ぎると青い防水シートをかけた家が増えはじめ、須磨付近で線路際に完全に倒壊した家を見た。あたりはずんずん暗くなり、それにつれて風景は傾き、焼き尽くされた家々の残骸が現れる。冷え切った窓に顔を擦りつけるようにして窓の外を見続けた。
 終着の神戸駅は夕刻のラッシュアワーだったが不思議に静かな気がした。人は多く行き交っているのだが、そして皆が沈黙しているわけではないのだが、沈黙の印象があった。しかしその沈黙が重苦しいかと言えばそうではない。投げやりではなく希望に満ちているわけでもない。あるがままの今を受け入れている沈黙とでも言えばいいのだろうか。
 駅前に応急に取り付けられた工事用の大型ライトが行き交う人々を照らしている。ここから先、住吉までの間は鉄道が不通だったが三宮行きのバスが待っていた。それらのバスは震災後に緊急に集められた混成部隊だったから、わたしの乗ったバスにはどこかの建設会社の名前が書かれていた。
 町に滑り出たバスはいくつもの迂回を繰り返しながら三宮を目指した。迷路ゲームのようなルートをバスはたいした渋滞もなく進み、完全に倒壊したビルやそのすぐとなりで何ごともないかのように輝くパチンコ屋の脇を通過する。こんなに暗い神戸を見たことがなかった。夜の六時半なのに深夜の雰囲気だ。そして三宮が近づいて来た。
 三宮の駅前はペシミズムに彩られた未来SFのような光景だった。そごう百貨店は重機で大半をもぎ取られて遺跡のような姿だ。その瓦礫が明るすぎる臨時の照明で照らされている。
 歩道橋を多くの人が黒い影となって列なして歩いていく。立ち止まってあたりの光景を目に焼き付けようとするわたしのすぐ隣を、ふたりの娘が「地震がなかったら…」と言いながら通り過ぎてそのあとは聞き取れない。しかしその言葉には地震を呪うのではなく、地震によって自分が発見したものを喜ぶようなニュアンスがあるように聞こえた。これは戦争で、ここは戦場だと言った方が説明がつきやすい。戦時の日常のようなものがこの都市を支配している。
 三宮からまたバスに乗った。街路灯の消えた国道二号に車の姿はほとんどなくて自衛隊員がところどころに立っている。バスの窓から見える国道北側の六甲へとせり上がっていく町並みは真っ暗で不気味に静まり返っている。
 それ以降、東京を歩いているときに不意に大地震に襲われる瞬間を想像するようになった。神戸を見ていたから自分が立っている街角が大地震によってどのように壊れていくかが生々しく想像できた。

 それから十六年後、あの大地震が起きたときは東京の都心のビルの五階にいた。ゆれは相当な振幅であり、かつ長い時間にわたって揺れた。ビルが倒壊するかと思えるような揺れだったが幸運にも倒れることはなかった。ひどい揺れだったが東京では建物の倒壊も大火災も起きず、都市機能の一部がマヒしただけだった。
 地震の三十分後、電車はすべて止まっていたのでビルを出て家に向かって歩いた。携帯の音声通話はつながらず、メールだけが長い時間をかけてようやく届いていた。二時間ほど歩いて自宅にもどると建物は見たところ壊れていなかったが、台所の食器がかなり落ちて床がガラスの破片だらけになっていた。

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 しかしテレビは東北のひどい状況を伝えはじめていた。その夜から週末の二日間を家にこもって大津波の映像をテレビ越しに見つづけた。テレビには津波によって破壊される市街地の映像が映しだされていた。流れこんでくる海水はそれを防ごうなどとは思いもよらないほどの圧倒的なエネルギーの流れであって、そのなかに巻き込まれた家々は紙でできた模型であるかのように簡単にひしゃげ、折れ曲がり、くちゃくちゃになって画面から外れていった。想像のなかで流されていく人の映像が脳内に滞って行きどころを失ったままになり、無数の断片になって脳内に残留し、固着し、組織に食い込んだ。
 自然の恐ろしさが骨身にしみた。津波の映像は何度見ても慣れることができなかった。将来は伝説となるに違いない天変地異だったにもかかわらず、東京にいたわたしは津波被災地から伸びる長い影の下にいたに過ぎないが、来る日も来る日もテレビで津波の映像を見つづけたわたしはそれらが間接の体験であることによって不確かな傷つきかたをした。刺し傷とヤスリで擦られた傷の違いといってもいい。
 津波のすぐあとで想像もしなかった状況が現れた。
 福島の原発の危機的な状況が伝えられるようになり、その深刻さが次第に明らかになっていったが、原発をめぐる政府の発表もマスメディアの報道も、結局のところなにが起きているかを正確に知らせていなかったために宙ぶらりんな何日かが過ぎていった。
 大津波の被害の様相は次第に明らかになっていったが、原発でなにが起きているのかはいつまで経ってもよくわからないのだった。破滅はすぐそこまで来ているのかもしれず、あるいは破滅の最初のプロセスが始まっているかもしれないのに、ひとびとは原発の危機の本当の姿を知らされることなしに極端に暗くなった町を歩きまわっていた。
 三月十五日、東京では雨が降った。その日は傘を持っていなかったので濡れて帰ったがなんとなく嫌なかんじの雨だった。放射能で汚染された雨に違いないと思った。実際、この日の朝から大量の放射性物質が東京に降り、雨には福島から運ばれてきた放射性微粒子が含まれていたことをずっと後になって知った。
 大変なことが起きかけていることを皮膚感覚が知らせていた。原発の災禍は直接的に東京に及ぶかもしれず、緊張が張りつめていた。町を歩いていてもそこにはきのうの日常はなく、いつ来るかわからない破滅を待つ瞬間が連続して表れていた。
 傷ついた原発は死の表象だ。いつ飛びかかってくるかわからない獰猛な生きものの群れに遠巻きにされていて、その状態で何日も何週間も過ぎていく。だが東京の危機感も不安も結局は抽象的だったので、時間をかけていじったりいろいろな方向から眺めることができた。綱渡り的な状況であってもそれが持続すれば人間はしだいに慣れてゆくものだ。余震に慣れたように原発の危うさにもしだいに慣れ、鈍感になっていった。
 危うい一週間は一ヶ月に、一ヶ月は二ヶ月になって次第にうやむやになっていき、わだかまりを積み上げた日常のようなものが再び姿を現したが、目に見えない不安が心理的な外傷を受けた都市の全体を薄いベールのように包んでいた。そのような心象を多くのひとが共有しているかどうかはわからなかったが、すくなくとも自分自身の意識は三月十一日以前とは違ってしまっていた。行き止まりで自閉的で出口が見つからない。圧迫された肉体の感覚。破綻の上に浮かんでいる借り物の安定という意識が基調になっていた。
 大震災から三ヶ月ほどが経つと東京は日常を取り戻していたが自分の内部の意識は改善されなかった。大津波の間接的な体験と東京の北北東二百キロメートルにある原発群のことがないまぜになっていた。壊れた原発の内部で燃える原子の火は抑え込まれていないだけでなく、悪魔的な威力を行使する瞬間を狙っている。恐ろしい原子の火で電気をつくろうなどという考えが浅はかだったのだ。
 福島の原発群が沈静化して地上から完全に姿を消すまでには恐ろしく手間のかかる面倒な作業の連続の何十年が必要だとマスコミは言っていた。原発は長い時間と多額の費用をかけて宣伝されてきたような安くて安全な存在ではなく、それどころか恐ろしく手を焼かせる厄介者であることがこれほどの惨禍によってようやく示された。
 震災からわずかに時間が経過するうちに奇妙な時期が訪れていることを自覚したが、たぶんそれは歴史が与えてくれた猶予期間だったのだろう。沈潜し自省し、深く降りていって根源に触れ、そして再生するための猶予期間。この時期、日本の社会も国家もまた運命のモラトリアムの中にいた。外部から見れば震災直後の日本は悲劇的であることによって黙示的存在だったのかもしれない。
 だが実際には、あの日以降に執りおこなわれてきたのは新しい世界への方向転換ではなくて旧来の世界を守ることだったようだ。放射性物質の毒を相対的に多量の無害な物質と混ぜ合わせ、希釈によってなかったことにする。時間の流れの中での希釈もまたゆっくりと着実に進められた。時間の流れの中での希釈とは忘れさせることに他ならない。現代ではどれほどひどいことであっても当事者以外はそのことをすみやかに忘れていく、あるいはそのように仕向けられる。傷ついた原発は世間から切り離され、隠され、覆われてよく見えなくなる。
 あれから四年半が経って、東京はなにごともなかったかのようだ。これまでに出会ってきたどの毒よりも強い毒、何千年何万年も吐きつづける毒が日々放出されて空から舞い降り、海に流れ出して大気と海を汚染しながら循環する時代が唐突にはじまって今もつづいているにもかかわらず、そのことに鈍感になっただけで状況は変わっていない。
 放射性微粒子に対して一定の効果があるといわれるN95マスクを装着して町を歩き、都市の日常を生きる。そういうイメージが頭から離れない。そこで結核病棟のことを思い起こすとこれはまるで世界が裏返しになったかのようだ。結核菌が閉じ込められた部屋にマスクをして入っていった昨日は、毒を含んだ空気におおわれた町にマスクをして出て行く今日にとって代わられた。

 毒に怯えるこのような時代はいったいいつ、どのようにして予告されていたのだろうか。極私的な記憶を遡っていくとそのひとつは一九七五年の春のある日の水俣だったかもしれない。
 夕刻に東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを西鹿児島行の寝台特急はやぶさ』は走っていた。
 関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、厨房に行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。
 車窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まり。
 となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。
 目的地は水俣だった。わたしは水俣に行き、町はずれに住んで水俣病と患者の取材を続けているひとりの写真家に会うためにこの列車に乗ったのだった。

 写真家と出会ったのはインドのカジュラホという小さな村だった。
 わたしは広大なインド亜大陸をさ迷っている途中で、写真家はナイロビでなにかの賞を授けられた帰りだった。彼はかなりいいホテルに泊まっていたがわたしは安宿の大部屋で、そこにはインドではごく当たり前に見られる木の枠に荒縄を張っただけのベッドが並んでいた。そのデザインは紀元前から変わっていないということだった。
 写真家はその二年前に水俣に取材した『写真報告-水俣・深き淵より』を出版し、またユージン・スミス夫妻、宮本成美氏他と共同で『不知火海・終りなきたたかい』(創樹社)を出版していた。帰国したわたしがなぜ写真家に会おうとしたのか、写真家がなぜ受け入れてくれたのか、今となってはなにも憶えていない。

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 『はやぶさ』が水俣駅に到着したのは午前一〇時かそれくらいだった。駅前に立つと三〇〇メートルほど先にチッソの正門が見えた。先入観のせいか軍事施設のように陰鬱に見えた。
 駅のそばの安宿に入ると、お茶を持ってきた仲居さんが「記者の方ですか」といくらか疎ましいような口調で問いかけてきた。被害者の多くを占める漁民と工場と関わりを持つ町の人々の間にある亀裂が着いて早々に見えた。
 荷物を置くと町に出て、バスで南へ四キロほど行ったところにある月浦に向かった。そこに写真家が住んでいる。小高い斜面の途中にある写真家の家はすぐに分かった。家に上げてもらい、ぼそぼそと話をした。それから写真家はわたしを車に乗せて付近の湯堂や袋の集落に行き、何軒かの民家に立ち寄った。写真家はそれぞれの家の庭先で村人と世間話をしたり縁側に座り込んだりした。わたしは存在を消すように傍らに立っていた。夜になってからふたりで国道沿いの小さな食堂に立ち寄って夕食を食べた。写真家に別れを告げたわたしはバスで暗い国道を走って水俣の町に戻り、翌朝フェリーに乗って御所浦経由で天草に渡った。
 その短い水俣滞在で写真家と一緒に会った人たちのすべてが水俣病の患者であるか家族に患者を抱えていた。彼らは写真家にとって被写体であると同時に共に運動を進めている仲間でもあったが写真家は何も説明しなかった。なにも予備知識を与えることなくいきなり現場を見せた。袋漁港の岸壁に立って水面を見透かそうとしながら、わたしは水銀を呑んだ魚群が狭い水俣湾内に封じ込められたまま泳ぎ回る光景を想像していた。
 水俣チッソの前身となる窒素肥料会社が設立されたのは一九〇八年のことである。 一九五三年になって水俣病第一号患者が発症する。一九五六年には熊本大学水俣病伝染病説を否定し、原因を工場排水と指摘する。一九六三年には熊本大学によって水俣工場排水中から有機水銀が検出される。
 一九六八年、政府は水俣病公害病と正式に認定。一九六九年、チッソに損害賠償を求める一次訴訟。一九七一年から一九八八年にかけて患者被害者勝訴の判決がつづくが、一九九二年には東京地裁が、一九九四年には大阪地裁が、水俣病における国と県の責任を否定する判決を出す。一九九六年、水俣病患者とチッソは政府解決案により和解する。
 こういう流れの中でわたしが水俣に行った一九七五年は一次訴訟で熊本地裁が患者被害者の勝訴判決を出した一九七三年以降、状況が患者被害者の救済に向けて有利に展開していると思われた時期ということになる。
 その後、写真家と連絡をとることはなかった。写真家はインドで出会って一度だけ訪ねてきた男を速やかに忘れてしまったに違いない。しかし彼が突きつけてきた事実は若死にしために老いることのない昔の友だちのようにわたしの中で生きつづけた。

 一九五〇年代の終わりから一九六〇年代の前半にかけての時代、当時のこども向け雑誌に掲載されていた未来の想像図や未来についての科学的予言書は、科学の恩恵を受けて快適な生活が実現する明日を語っていた。こどもたちにとって未来とは確実にやってくる一種のユートピアであり、高度の科学技術によって実現される動輪のない自動車とか透明なチューブに覆われた高速道路とか奇妙に曲線の多いデザインの高層ビルとか、そういうものの集合体だった。今よりも住みやすい清潔な未来は確実にやってくると、新幹線も高速道路も高層ビルもない一九五〇年代に土ぼこりの舞う路地を走るこどもたちは信じていたに違いない。
 だがそれから六十年近くが経過して、かつては未来として語られていた時代に到達してみると、想像していた風景とはずいぶん違っている。物質的には確実に豊かだが確実に貧しく不安な世界。今は一〇年後にはこれだけ幸せに安全になると誰の口からも聞くことができない。清浄と毒とのせめぎ合いがこの世の実相であるのなら、毒が清浄を圧倒しようとしている。
 マスクの中に自閉する未来。清浄な明日はどこへいったのか。