[rèɪdioʊǽktɪv]

文=波田野直樹 イラスト=田添公基

ドアの向こうに朴正熙がいた(4)

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4 帰還

 翌朝九時すぎ。Y領事のアシスタントのKさんからの電話があった。生きているかどうかの確認だ。ああ、生きてるよ。
「元気です。外には誰もいないらしい。監視はいないと思います」と答える。
「よかったですね。でも気をつけてください」
「あしたの飛行機かあさってのフェリーで帰ることにします」
「それがいいですね。気をつけて」
「ありがとう」
 十時。JALのオフィスに行こうとホテルを出た。
 しかしいくらも行かないうちに、釜山駅のちかくで尾行者の存在に気がついてしまった。背広姿の大柄な男だった。やってはならないと思いながらも、尾行者かどうか確認したい誘惑に負けてゲームを試みる。そのゲームのルールは実に簡単だ。晋州の町の南江にかかる橋の上で試みたと同様、通常ならあり得ないルートをたどってみるのだ。正方形の街路を四回曲がってなおもついてくる者がいれば、そいつは間違いなく尾行者である…それと同じやり方だ。尾行者であることが確認できたとしたら、重い鎖をくくりつけられて町を行くような気分から逃れられなくなるのは分かっている。しかし、それでも知らないままではいられない奇妙な衝動が巣食っていた。
 近くに歩道橋があったので急に方向を変えて歩道橋に上り、ちょうど中央のあたりに立ち止まっててすりにもたれ、眼下を流れる車を見ているようなふりをする。尾行者がわたしの妄想であったなら、その大柄な背広の男はそのまま歩いて行って繁華街の人ごみに紛れるはずだ。しかしわたしはまたしてもゲームに勝ってしまった。男が歩道橋に上がってくることはなかったが、歩道橋の階段の下に隠れるようにして監視をつづけたのである。重苦しい霧が降りてきて周囲を包んだ。もうどこに行っても逃れることはできない。完壁な監視下にわたしはあり、何らかの決定が下された途端に彼らは飛びかかってくるにちがいない。
 それから懸命にJALのオフィスを探したが、しかし聞くひとごとに言うことがちがうのだった。結局、途中で見つけたK航空のオフィスに飛び込んだ。発券カウンターに座るか座らないかのうちに大柄な背広の男がオフィスに姿を現した。わたしと目を合わせようとはしなかったが、もはやどうどうと姿を見せはじめたのだ。これは恐らく威嚇であり、退去の要求なのだろう。でなければ、なんらかの訓練の標的に使われているのかも知れないとさえ思えた。オフィスの公衆電話からY領事に電話して事情を説明すると、「すぐ帰ったほうがいいね」という返事だった。もちろん同感だ。カウンターにつくと応対に出た男の職員に当日の便の予約を申し出た。
 「きょう、なるべく早い便がほしいんですが」
 「どこまでですか」
 「福岡まで、ひとり、エコノミークラスです」
 「はい…ありました。午後三時二十分。いいですか」
 「もちろん!」
 「…あなた、英語うまいですね。仕事は××関係ですってね」
 「…」
 おだやかな口調からは恫喝も揶揄も読みとることはできなかったが、たしかに彼は情報による威嚇を試みているのだった。
 航空券を手に入れると歩いてホテルまでもどった。正午をすこしすぎていた。その五分後には荷物を手に持って宿の外に立っていた。タクシーに乗って金海空港にむかうわたしを、背広の男が運転する車が追尾しはじめたのはもちろんだった。
 金海空港、午後一時。尾行の男もどこかにいるはずだ。この状況では出国できるかどうかは神のみぞ知る、だ。
 午後一時四十五分、チェックインカウンター。係の男は航空券とパスポートをチェックしながら、顔を上げずにさりげない口調でゆっくりと言った。英語だった。
 「晋州に行きましたか」
 「…ええ」
 「帰りのバスの座席番号、十五番でしたね」
 「そうです」
 チェックインはそうして無事に済んだ。
 「これであとはイミグレーションですか?」
 わたしが尋ねると彼は日本語で言った。「いろいろむずかしいことありましたが、もう大丈夫です。また来てクダサイ」

 金海空港から福岡までは水平飛行をしている暇がないほどの距離だった。ほんの三十分後の午後四時には日本にいた。
 福岡空港ロビーのひとごみの中で、しかしなにか空虚な気分だった。不安は消えたがうれしくもない。やっと帰って来れたとか、もう大丈夫という気分でもない。肉体の緊張はゆるんでいないし、精神の緊張も解けていない。安全な母国にもどってきたのに精神と肉体は身構えたままでいる。自分のいる場所に違和感があった。まわりのだれも監視と密告におびえてはいない。日常生活のささやかな喜怒哀楽が、ちょっと前までのわたしのように、かれらの日常を彩っている。だが妄想であったとしても、意識のなかではわたしひとりが尾行者に空港ロビーのどこからか見られている気がした。福岡をすぐにでも離れたかった。
 その日は新幹線で広島まで行き、駅前のビジネスホテルに泊まった。ホテルの部屋のベッドの上で身の上に起きたできごとを時系列でできるだけ細かく書きとめた。あとになって何度もなつかしく思い出したいできごとではないが、記憶の奥にしまいこんでできることなら忘れてしまいたいとも思わなかった。なによりも、起きたことをできるだけ正確に記録しておきたかった。時間が経てば細部は失われ、のっぺりしてあいまいな印象だけが残る。しかしこういう場合は細部にこそ価値があり、細部こそが事実を語るのだ。
 わたしはそのようには意識していなかったが、書くことによって自分のかかわった事実を自分からある程度切り離して客観視することができる。それによって一種のカタルシスをもたらす可能性があるしパラノイア的な状態から抜け出す効果も期待できる。いずれにせよ、その夜は長い時間をかけてメモを書きつづけた。

 帰京すると広島で書いたメモをもとに詳しいレポートを書いて警視庁に行き、インターポールの窓口になっている国際共助課という部署の担当警部補にことの顛末を話した。
 日本には「北」も「南」も含めて多くの諜報関係者がいるはずだから、自分の国にいるから安全と言うことはできない。しかしこの部署がわたしの報告を記録として持っていれば不審な死に方をしたときに事件として取り上げられるかもしれないと思った。警部補は話を聞き終わると、自分が話を聞いたからといってもあんたの無実が担保されるわけじゃないよという意味のことを言った。警察組織らしい物言いだ。彼らがわたしを守ってくれる保証はなかったが、できることはやったと思い、とりあえず満足した。
 帰国してからしばらくは多分にパラノイア的な心理状態にあった。常に監視を受けているとかんじていたし、路上に止まっている車があればわたしを監視している人物がいるように思えた。それは事実だったかもしれないが、おそらくは不安が生んだ妄想だったのだろう。

 外国人がなんらかの嫌疑をかけられて監視や尾行を受けることは日本を含むどんな国でも起こっているし、そのこと自体はとりたてて驚くようなことでもない。しかしそういうできごとが自分自身の身に起きると話は別だ。
 入管で手荒な扱いを受けたわけではないけれども逃げることは不可能な状態だった。尋問を受け、それからひとりきりで応接室で何時間か過ごした。部屋の外がどうなっているのか、監視がいるのかどうかは確かめなかったがおそらくいたと思うし、いなかったとしても誰にも気づかれずに建物の外に出ることはできなかっただろう。なによりも韓国という国家自体がわたしにとっては檻だった。
 応接室で眠りこけていたあいだに、わたしの言ったことについていろいろな方法で裏をとっていたのだろう。入管の資料をすべて洗い、韓国の保有する過激派のファイルを繰り、警察と接触した。KCIAや在日本韓国大使館とも連絡をとったかもしれない。仮に過激派がらみだとすれば彼らにとっては重要な案件だ。国家の機関がフル回転して情報を探し回ったにちがいない。
 それからすこしして入管からは放免された。入管自身が拘留したり、あるいはそのまま警察に引き渡すほどには疑惑が深まらなかったということは考えられる。怪しい情報が出てこなかったのでシロと判定されたのかもしれない。しかし情報が出てこないからシロと判定するほど彼らが甘くなかったのはその後の状況の推移が証明している。どの機関が判断したのかはわからないが、泳がせてみることにしたというのがもっとも可能性がありそうだ。
 だが細部を思い返してみると腑に落ちないことがいくつもある。彼らは荷物を調べなかったし身体検査もしなかった。身ぐるみ剥いで調べてもよさそうなものだが質問の連打を浴びただけで済んだ。このへんがどうもよくわからない。厳密な態度と杜撰な態度がないまぜになっているという気がする。この不確かな印象は出国するまでのあらゆる瞬間にかんじられていた。
 入管の仕事が終わるとわたしの監視という仕事は警察(あるいは警察とKCIA)に移った。入管からバスターミナルまで送ってくれた男はおそらく刑事だと思う。入管の人間という雰囲気ではなかった。バスにはおそらく監視者が乗っていた。バスの中で会った学生はたぶん警察の関係者ではない。彼はわたしと別れたあとで警察に呼ばれてさんざん取り調べを受けたにちがいない。晋州に到着したわたしはその瞬間から尾行されたが、尾行がいるとは思いもしないわたしは気づいていなかった。
 宿に現れた二人組の刑事の目的は軍隊用語でいえば威力偵察だったと思う。小規模な部隊で攻撃して敵の反応や部隊規模をさぐる。敵をすこしつついてみるのだ。彼らは威圧して反応を観察した。お前は自分たちの監視下にあるという宣言でもある。彼らは、ことばでは言わなかったが、はやく出国しろと謎をかけていたのかもしれない。
 翌日も、午後になってバスで釜山にむけて出発するまで、ずっと監視されていた。かならず二人組で、ただし顔ぶれは次から次へと変わっていった。この尾行にしても気づかれないようにすることは可能なはずで、気づかれることを織り込んだ行動だったようにも思われる。
 釜山行きのバスにはわたしを監視するために乗り込んできたと思われる男がいたがこれについては確信はない。強迫観念が生んだ妄想だったかもしれない。
 釜山に着くとタクシーで日本総領事館に向かったが、総領事館を担当している(つまり監視している)刑事が車で尾行し、それからわたしが領事と会って出てくるまでのあいだずっと待機していた。わたしが領事館を出ると、そばに寄ってきてホテルまで送るといった。なぜ送るといったのかはわからない。そのまま警察に連れていくつもりだったのかもしれないし、本当に送ってくれるつもりだったのかもしれない。彼らが力づくで連行するのは簡単だったはずだがそれはしなかった。人目のある町の中では手荒なことはしにくいということだったのかもしれないがよくわからない。
 領事は警察にかけあってわたしから手を引くように言っていたが、結果的には警察は領事の要請を無視して尾行をつづけた。このあたりの力関係はよくわからないが、領事がわたしという人物を記憶してくれたことが最大の収穫であり、それこそがわたしの狙いだった。
 当時の韓国は民主主義国家ではなく、大統領の強権のもとでKCIAに象徴される国家機関が国民を監視するような社会体制だった。つまり人権は危うい状態にあったから、警察に連れていかれて拷問をふくむ圧力の下で自白を強要され、犯罪者に仕立て上げられることを想定しなければならなかった。そのような事態にならないようにするには日本という国家がわたしの存在と置かれた立場を認知していることが重要だ。その上でわたしが行方不明になり、あるいは逮捕されるとしても、その後の状況は変わってくるはずだと思った。それゆえ、領事がわたしを認識しているという事実には相当に勇気づけられた。
 翌日の朝、ホテルを出てすぐに別の尾行者に気がついたが、この尾行も半ば陽動作戦だったように思われる。尾行していることを気づかせて出国するよう促しているのだとこのときはじめて思った。K航空のオフィスで福岡行きの航空券を買うときもこの男はオフィスに入ってきた。K航空のオフィスで発券してくれた係員はわたしがどういう状況にいるかを十分に把握しているようだった。実にリラックスした態度で接しながらソフトな恫喝をこころみた。彼は航空会社に配置された警察あるいはKCIAの関係者だったかもしれないし、航空会社という組織が捜査機関あるいはKCIAと密接につながっていたというだけのことかもしれない。いずれにしても、わたしの立ち回り先にはわたしが行くということだけでなく、どういう人物かという情報までもが伝えられていた。K航空で航空券を買うつもりでホテルを出たわけではなく、JALのオフィスが見つからなかったのでたまたま手近にあったK航空に行ったにすぎないが、それにもかかわらず、わたしに関する情報はオフィスにいる職員に伝えられていた。その後も尾行は空港までつづいた。
 ここまでに登場するのは、当然のことだが、わたしが認識した尾行者たちだ。だが実際にわたしの行動を監視していたのは彼らだけだったのだろうか。日本での事例だが、オウム事件に関わる捜査では、あるとき五十人もの捜査員がひとりの人物を同時に監視し尾行したという。自分自身が認識したのは常にひとりかふたりだったが、それ以外にわたしを尾行し監視する人物がいる可能性があったにも関わらず、そのことには思いが及ばなかった。わたしの意識は顕在する尾行者たちに集中していて視野狭窄に陥っていた。
 空港のカウンターの職員がなにを伝えようとしたのかはわからないが、あとから考えると当時の韓国という国家からのメッセージを代読したのかもしれないと思えてきた。
 そしてこれもあとになって感じられてきたことだが、彼の言葉にはいくらかのあたたかさがあった。さりげない口調ではあったが、わたしをなぐさめ、安心させようとしたのかもしれない。そこから改めてわたしが出会った(つまりわたしを調べ、監視した)ひとびとのことを思い出し、そのひとりひとりについて口調や態度を再検討してみると、やはりそれぞれになんらかのメッセージを発していたように思われてくるし、そのメッセージには彼らの個人的な好意が隠れていたとさえ思えてくる。彼らはそれぞれの立場で可能な範囲において、かなり親切だったのだ。
 入管の職員は食事を奢ってくれただけでなく晋州への行き方をアドバイスしてくれた。入管からバスターミナルまで案内してくれた男は両替をしてくれた。晋州で旅館の部屋にまで入ってきた刑事は木浦への行き方をずいぶん詳しく教えてくれた。そうであれば領事館担当の刑事は本当にホテルまで送ってくれようとしたのかもしれない。彼らの役割はそれぞれに深刻な恐怖を感じさせたが、あとになって思い返してみると、彼らの個人個人には悪い印象が不思議なことに感じられないのだった。
 彼らは体制の中でそれぞれの役割を仕事として果たしていたに過ぎないと思えたし、その背後にある彼らの人間性には不快な感じを受けなかった。不思議な感覚だ。ただしその感覚は三十年以上が経ってから気がついたことで、追われている瞬間には単に怯えているだけだった。
 こういう自分の意識の揺らぎを繰り返して思い起こしているうちにストックホルム症候群とかリマ症候群とかについて考えている自分に気がつく。一九七三年八月、ストックホルムで銀行強盗が人質をとって立てこもる事件が起きた。このとき犯人と人質との間に、のちにストックホルム症候群と呼ばれるようになる特徴的な関係性が生じた。それは人質が犯人に協調する心の動きとそれに起因する協調的な行動といっていいだろう。ストックホルム事件では事件が長引く中で人質は警察に敵対する行動を取るようになり、事件後の裁判では人質側が被告に有利な証言を行ったし、人質のひとりは犯人と結婚した。
 リマ症候群は単純にいえばストックホルム症候群と鏡像のような関係にある。この場合は犯人が人質に共感し、態度を和らげた。一九九六年十二月、在ぺルー日本国大使公邸で行われていたレセプションにトゥパク・アマル革命運動(MRTA)を名のる左翼テロ組織が侵入して大使公邸を占拠し、七十人以上の人質が犯人と百二十七日におよぶ期間を過ごすことになった。このとき若いゲリラたちは人質と生活を共にする中で他国の文化や環境に興味を示すようになり、関係は良好になっていった。軍の特殊部隊が突入した時も彼らは人質に発砲することができずに全員が殺害された。
 監禁事件の特徴のひとつに、異常な緊張にあるとはいえ、時間的には暇だということがある。緊迫した時間はいつまでもつづくことはできず、すこしずつ弛緩していくものだ。わたし自身は人質になっていたわけではないけれども、監視し尾行する人々とのあいだで緊張状態にあった一方で、繰り返し小さな弛緩を経験した。
 さらに、これは憶測にすぎないのだが、わたしが目指したのが全羅道だったことも体制側の監視者になんらかの暗示を与えたかもしれない。全羅道は韓国においてある種の差別的な視線を浴びる土地であったのだ。
 歴史的に百済以来の全羅道に対する差別があるという指摘がある。さらに朴正煕は自らの出身地である慶尚道を優遇した。経済開発にしても慶尚道が重視された一方、全羅道は軽視され、ひとびとは働き口をもとめてソウルなどの大都会へと流出していった。そして全羅道にあって半島の南西端の港町である木浦は金芝河金大中の出身地でもある。

 この出来事から二十年近くが経った一九九〇年代の半ば、韓国に行く機会がめぐってきた。観光旅行ではなくて行かなければならないビジネスの旅だった。韓国はすでに民主化されていたが、わたしに関する記録が残っているとすれば問題が起きる可能性があった。同行者には一九七八年の出来事については話さなかった。無事に入国できるかどうか、なにごともなく出国できるかは賭けだと思っていた。
 金浦国際空港に着いたわたしの体は緊張で冷えきっていたが入国手続きはなにごともなく済み、ある財閥系の商社に直行して会議に参加して、夜は高級料亭で接待を受けた。韓国はもはや翳った灰色の国ではなく、経済発展をつづけて日本に肉薄しようとする近代的な国家になっており、会った韓国人はみな明るく快活で現実的に見えた。憑きものが落ちたような気分だった。
 夜。泊まっているホテルのバーにひとりで降りていくと女の歌い手がピアノの脇に立って歌っていた。ラメの入った黒いロングドレスが煌めいている。彼女の背後には巨大なガラスの壁があってその外にソウルの夜景がひろがっている。バーの暗がりと夜景とが滑らかにつながっている。ソファに埋もれてバーボンのロックを味わいながら耳慣れたジャズナンバーを客の会話の邪魔にならない程度の声量で歌う彼女の姿を眺めていた。
 周囲のすべての方向に星が敷きつめられた空間にわたしひとりが漂っている。星空を旅している。それは自由の感覚に似ており、強烈なカタルシスに縁どられていた。
 克服したか?
 ああ、そうらしい。たぶん。

(了)

ドアの向こうに朴正熙がいた(3)

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3 尾行

 翌朝、目覚めたのは八時前だった。ぐっすりと眠ったらしい。気分は悪くなかった。じりじりしながら待ち、九時になると同時に主人に釜山の日本領事館に電話してもらった。日本領事館に電話することによって身の潔白を主人にわかってもらいたいという気持ちもあった。
 だが電話を頼んだ時も主人は悲しそうで伏目がちで、わたしと出会ったことを後悔しているように見え、しかしなぜかその印象は完全ではないのだった。不完全な部分とは何か?しかしその時は、自分の身の安全に気を取られて主人の感情の起伏にまで思いが及ばなかった。
 受話器のなかで呼び出し音が何回か鳴り、そして「ヨボセヨ」という小さな声が聞こえてきた。「日本人のスタッフをお願いします」と英語で言った。「ご用件は」と彼女は日本語に切り換えて尋ねてきた。簡単に事情を説明すると彼女は少しの間だけ電話口を離れ、戻ってくると「一度来てみて下さい」と言った。
 領事館に経過を報告したことで気分が楽になったわたしは急に元気が戻ってきていくらかでも観光をしようという気になり、この町で一番の史跡である晋州城跡を見に行くことにした。
 晋州は秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰倭乱という)当時の激戦の地のひとつだ。南江の左岸にある晋州城をめぐる戦い(晋州城攻略戦)は、日本では加藤清正や森本儀太夫が活躍したことで有名だ。一五九二年十月の戦いでは朝鮮側が勝ったが、翌年の六月の戦いでは日本軍の大兵力が投入されて晋州城は落城する。戦いのあと、日本軍は晋州城内で戦勝の酒宴をひらいたが、このとき論介《ノンゲ》という妓生《きーせん》がその後になって義岩(ウィアム)と呼ばれることになる岩の上から日本人の武将を道連れに南江に飛び込んだという説話が朝鮮側にある。義岩は岸に近い川の中にある平らな岩で、大きさは縦も横も三メートルをすこし越える程度らしい。城内にある轟石楼(チョクソクル)は十三世紀に建設された楼台だが、現在の建物は一九七二年に復元されたものだ。高台にあって眺めがよく、町の観光名所になっている。
 その轟石楼への行き方を主人に尋ねると途中まで送ってくれるというので一緒に宿を出た。宿を出てどちらも無言で歩いていく。いまのわたしは病原菌みたいなもので、触れた誰もが悩みと後悔を抱え込んでしまう。それはわたしの責任ではないが、わたしの存在がなければ彼が悩むことはなかったのもたしかなことだ。主人はなにかを伝えたがっているのだが、この国のある重圧がそれを禁じている。そのことがはっきりとかんじられてきた。
 当時は朴正熙体制の末期で、さまざまな局面で大衆の不満が高まっていた。だが政治的な話は危険であり、まして警察から目をつけられている外国人に政治の話をすることはかぎりなく危険だったはずだ。わたしも彼も言いたいこと説明したいことが山ほどあったがなにもいわないほうが彼には迷惑がかからないだろうと思った。言ってはいけないのだとお互いにわかっていた。そういう空気が生み出す沈黙がわたしたちを結びつけていた。

 南江をまたぐ橋のたもとで主人と別れて轟石楼のほうへとひとりで歩きはじめてから不審な人物に気づくまでにはいくらもかからなかった。
 ゆるい坂道を登って行く途中で何気なく後ろを振り返ったとき、ひとりの男が後ろを歩いているのが見えた。男は茶のズボンに茶色のサファリジャケットを着ている。短髪で面長で浅黒い皮膚の、これといって特長のない男だった。
 見た瞬間、その男が尾行者だとわかった。カンにすぎないが、まちがいないと思った。きのうの朝から夜にかけての出来事を通じて感覚が異様に鋭くなっていた。外界に対するセンサーがからだじゅうに生成されてハリネズミのようになっていた。背中に目があるようなかんじだった。もはや観光するような状況ではない。途中で引き返すことにした。
 茶色のサファリジャケットが太った男と立ち話している。そのすぐ脇を通りすぎるとき、太った男のはち切れそうになった開襟シャツがひどく汗ばんでいるのに気がついた。ふたりはわたしをまったく無視したまま、向かいあって熱心に話している。熱心に話すふりをしている。あまりにも会話に熱中している様子が不自然だった。
 途中で南江の河原に下りるとそのまま橋を目指した。男たちの姿は見えなくなったがどこからか監視しているのは間違いなかった。橋のたもとにある階段を伝って橋の上に出て、中央あたりまで行ってから川を見ているふりをしながら様子をうかがっていると、彼らがわたしを追っておなじ階段をあがって現れるのが視野の隅に見えた。それから彼らはこちらに向かってとてもゆっくりと歩いてくる。
 ちょっと仕掛けてやろうと思った。橋の上をバスターミナルの方向に、つまり宿とは逆の方向にゆっくりと歩き、彼らをすこし引きつけてから、急に向きを変えて宿の方角へと戻りはじめた。男たちとすれちがってやろうと思ったのだ。しかし彼らを見ることはしない。わたしは彼らに気がついていないことになっている。ふたりの男はぎくりとしたように一瞬立ち止まってから、押し出されるように向きを変えてわたしの前をゆっくりと歩きはじめる。
 彼らの歩き方に恐怖も忘れて見入っていた。不思議な歩き方だった。膝にも足の全体にも力が入っていないように見える。からだ全体に力が入っていない。スローモーションのようで、まるで雲を踏んでいるようなのだ。しかも存在感が薄い。存在が消えかかっている。半分透明になりかけている。だれもが彼らの存在に気がつかない、そんな歩き方だ。尾行の訓練というのはまず自分の存在感を消す努力からはじまるのだな、とひとりでうなづいていた。
 橋を渡り終えても彼らを追い抜かないよう、こちらもゆっくりとした歩調で歩いた。その結果、彼らは尾行する目標の前を、すがたを晒したままで歩かなければならない状況に陥っているのだった。そこで彼らはできるだけゆっくりと歩いてわたしが追い抜くのを待っているのだが、なかなか抜かれない。彼らにとっては困った状態がつづいた。
 ゲームはそれくらいにして、途中の信号待ちで素知らぬふりをして彼らに並んだ。信号が変わるとふたりを追い越し、今度は急ぎ足で宿にもどった。すぐにでもこの町を脱出して釜山の領事館に行かなければならない。
 宿に着いたのは十時すぎだった。一時間ほど散歩したことになる。とりあえず高速バスターミナルに向かうことにした。バスの時刻はわからなかったが頻繁にあるはずだ。主人はタクシーのところまで見送りにきた。悲しげな表情だったが何も言わなかった。
 「さよなら」
 「気をつけて」
 たしかに気をつけなければならなかった。しかしどのようにすればいいのだろうか?
 タクシーが動き出すとうしろをふりかえって後続車に注意してみた。そしてすぐに、後ろをついて来る乗用車の中に茶のサファリジャケットの男を発見した。彼のとなりには太った開襟シャツの男がいた。彼のシャツはぐっしょりと汗でしめっているはずだ。
 午前十一時前、高速バスターミナル。しかし釜山行きのバスは午後三時まで満席だった。すぐに鉄道駅に行ってみたが釜山行きの列車は実に少なかった。結局はバスに乗るしかない。徒歩で宿に戻るわたしの五十メートル後方を、茶のサファリジャケットと太った開襟シャツがゆらゆらと陽炎のようについてくる。
 正午前に宿に舞いもどり、主人に釜山の領事館に電話してくれとまたも頼み込んだ。時間がゆっくりと過ぎていく。じりじりと鉄板の上で焼かれるような気分だ。
 電話は三十分ほどでつながったが、日本人ではない女性の声が「休憩中なので、午後二時にかけ直してクダサイ」と涼しげに言った。「部屋で休んでいいですよ」という主人の好意を無視して宿の前にあるタバン(韓国語で喫茶店を意味する。漢字で書けば茶房)に行った。後を追うように茶色のサファリジャケットと太った開襟シャツがするりと店に入ってきてすぐ背後に席を占めたので、彼らに完全に監視されることになってしまった。韓国のガイドブックを取り出して文字を目で追ってみたが頭に入ってこない。文字が浮いて見える。考えもまとまらない。
 午後一時半。宿に戻って主人に昼食を頼んだ。食事を待っていると茶のサファリジャケットが中庭に入ってきてトイレに消えた。主人は男が入ってきたことにすら気がつかない風を装っている。このゲームにおいてはわたしは彼らに気がついていないことになっている。あいつらは空気なんだなと再び思った。
 電話は二時すぎにようやくつながった。日本人の男の声が聞こえてきた。声は「わたしはYといいます」と名乗り、自分が警察関係の領事であることを告げた。わたしの話を簡単に聞いたY領事は「とりあえず、すぐに来なさい」と言った。晋州から釜山へは高速バスで二時間ほどだ。「午後五時半には行けると思います」と答えた。時計は午後二時半を指していた。バスの発車は午後三時。宿を出ると再びタクシーで高速バスターミナルに向かった。うしろの車には、確認するまでもなくあの茶色のサファリジャケットが乗っている。
 午後三時ちょうど。バスはターミナルを離れ、やがて釜山への高速道路に乗った。ゲームはまだつづいているようだった。客席の中ほどの進行方向右の窓際のわたしの席と左右対象の位置にバトンタッチした尾行者がいる。色白の二枚目風。茶のサングラス。紺のジャンパーを着ている。高速道路を走るバスの車中でその白い横顔を盗み見た。表情を見せることのないその男は正面を向いたままだ。ロボットみたいだなと思った。そのロボットは精密な探知器を装備していて、どこに逃げても一定の距離を保ったまま追尾してくるに違いない。
 ずっと後になって、タイの田舎の人里離れた原っぱのようなところで数十頭の野犬の群に出会ったことがあった。尾行するシステムとの関係は、このときタイで出会った野犬の群との関係に似ていた。数十頭の野犬の群は白い歯をむき出しながら包囲の輪をじわじわと縮めていき、やがてもっとも近い牙はわたしのふとももに触れそうな距離にまで迫った。暑いタイだからそのときはショートパンツにゴム草履を履いていてTシャツだった。野犬の牙からほとんど完壁に無防備なわたしは自分の置かれている状況がかなり危険だと悟っていたが、だからと言って安全に脱出できるうまい方法など何ひとつ思い浮かばないのだった。はっきりしていたのは動けば死を招くかもしれないということだけだった。立ち止まったままで息を殺した。気持ちで負けないようにしながらできるだけ冷静になろうとした。いくつも重なるうなり声の中で、しわだらけのロの中の涎(よだれ)と鋭い歯の列を、できるだけはっきりした映像として捉えようとした。恐怖心がすべてを台なしにするのだぞ。と、もうひとりの自分が囁いた。走り出してはいけない。恐怖にかられて走り出せば、その瞬間に破滅的な結末がまちがいなく訪れる。何分かがすぎた。野犬の群はあいかわらずわたしを包囲していたが、やがてもっとも近くにいた一匹が興味を失ったようにわたしをにらみつけるのをやめて別の方角を見た。たぶんこれがボスだったのだろう。それをきっかけに、彼らはわたしを置き去りにしたまま、周囲を威圧しつつゆっくりと移動していったのだった。
 尾行してくるシステムとの遭遇においても、わたしの動物的なカンは「走ったらやられる」ことを教えていた。彼らに気づくことはせず、平静を保ち、刺激せず、ゆっくりと動くのだ。
 午後五時十五分、バスは釜山の高速バスターミナルに到着した。このバスターミナルを出発したのは昨日の午後だったというのに。すぐにタクシーで日本領事館に向かった。だが、うしろをついつい見てしまう。すると一瞬で古びたブルーの乗用車が三十メートルかそれくらい離れてついてきているのを確認した。野球帽のような帽子をかぶった運転手のとなりには小太りの男が座っている。太い黒縁のメガネとロ髭が印象に残った。領事館へはあっという間に到着した。Y領事に面会したのはわたしが告げた通り十七時半ちょうどだった。
 Y領事は警察庁から派遣されてきている人物だった。物腰の柔らかい彼の落ち着いた語り口を聞くうちに、緊張しきっていた体中の糸が少しずつ緩みはじめるのがかんじられた。ひとりきりで包囲と監視に晒されて過ごした一晩のあとで、日本という国家がわたしを守ろうとしている。
 Y領事はわたしの長い話を聞き終わると、ひとこと「ひどいことをするもんだ」と言った。そしてつづけた。「わたしから当局には抗議しておくよ。旅行をつづけるかどうかは君の自由だ。つづけてもいいし帰ってもいい。自分でよく考えて決めなさい」
 Y領事は緊張して疲れきったわたしの様子を見て同情したのだろう、雑談をはじめた。
 「わたしなんかね、この国のどこに行ってもずっと尾行されているんだよ」
 「え。そうなんですか」
 「そう。当然、この国の外交官も日本においては同様に尾行されるわけだがね」
  同席していたKさんという韓国人の若い男性はY領事のアシスタントをしているらしかった。さかんに「もう心配しないで」と言ってくれる。そうこうするうちにだんだんに冷えきっていた体が暖まっていった。
 一時間ほども話しただろうか。領事に礼を言い、Kさんが予約してくれた南浦洞(ナムポドン)のN観光ホテルに行くことにして領事館を出た。午後六時半を過ぎており、あたりは薄暗くなりかけていた。領事館の正門を出て中央路(チュンアンノ)を南の繁華街へと百メートルも歩いたあたりだろうか、不審な車に気がついた。わたしのすこし前を、歩道の縁石に触れそうになりながら一台の車がのろのろと走っている。その車がさらに速度を落としてわたしの歩く速度にあわせたかと思うと、窓越しに運転手が「N観光ホテルに行くんでしょ。乗せてあげます」と日本語で言った。反射的に「結構です」と断ったが、その運転手の顔にも車にも見覚えがあった。後ろの座席にいた男がドアを開けて降りてこようとしている。その顔をみて、はっとした。釜山の高速バスターミナルに到着してから領事館に着くまで尾行してきた男だ。タクシーの中でうしろを振り返った時に記憶に刻みつけておいたふたりの男の映像がよみがえった。
 拉致される。そう思った。くるりと向きを変えると領事館に向かって戻りはじめた。走ってはいけない、叫んではいけない。パニックになれば死を招くのだぞと思いながら。領事館の門をくぐる時に振りかえると車は元のところに止まっており、口髭の男がそのわきに立ったままこちらを見ている。
 領事館の敷地に入るとこれで助かったと思い、深く溜め息をついた。もうここは日本だ。ここには治外法権という強力な味方がいる。しかし近づいてみると領事館の明りは消え、建物の扉は閉ざされている。暗澹とした気分が襲ってきた。この敷地内に夜通し居残るのは許されないにちがいない。
 そのとき、一台の黒い公用車が裏の方からゆっくりと現れた。わたしは門を出ようとしていたその公用車に駆けよると、ピカピカに磨き上げられたドアにすがりついて「拉致されかけたんです!」と叫んだ。車が急停止し、窓が開いて不審そうな表情が現れた。きょう最後に退出するS領事だった。彼は当然のことながら今日のわたしとY領事のやりとりを知らないのだろう。しかし必死に説明するのを聞いて表情を和らげると、「守衛室に入りなさい。守衛にY領事と連絡をとらせなさい」と言うと窓を閉め、しずしずと退出していった。
 いずれにしても多少は光が見えてきた。守衛にY領事に連絡するよう依頼すると、せまい守衛所の隅にある木製のベンチでじっと待った。ブルーの乗用車はあいかわらず門の外に止まっていて、運転手と口髭の男が中にいるのが見える。
 わたしの立場はどんなものなのか。独裁的な強権国家の破壊的な腕がわたしを捕らえようとして迫りつつある。そのことが切実にかんじられた。無実であることはもはやわたしを救う武器ではない。事実は作り上げられることもある。Y領事もS領事もわたしの言うことを信用してくれたはずだが、しかし強力な庇護の手は結局は差しのべられなかった。
 わたしは自分の身を守ってくれる具体的な手段を欲していた。それはたとえば完全武装した護衛の一個大隊とか、日本へと運んでくれる軍用機とかである。しかし現実はちがっていた。すっかり暮れてしまった釜山の夜の七時近く、日本人のひとりもいない領事館の守衛所の隅におびえて座りつづけ、来るかどうかも分からない一本の電話を待っている。外では拉致を目的としているに違いない男たちが待ち受けている。日本はほんのひと飛びの近さにあるのにはるかに遠い。
 七時ちょうど。守衛所の電話のベルが鳴った。Kさんが電話口の向こうで「もう心配しないで」と語りかけてくる。拉致されそうになったと訴えるわたしの報告をだまって聞いていたKさんは、落ち着いた口調でこう言った。「あ、その男はですね。彼は領事館担当の刑事ですね。」
 思いっきり空振りしたホームランバッターのような気がした。わたしひとりが妄想に振り回され、力んで騒いでいたのだろうか。しかしわたしのカンは明らかに異常な事態が起こりかけていると告げていた。
 Y領事が電話口に出てきた。「今ちょっと宴会に出てるんだけどね。すこし待っていなさい。これから行くから。」
 電話は切れた。勇気がまた湧いてくる気がした。閉じこもっていた守衛所を出て門のところまで歩いていった。外にはあいかわらず、ブルーの乗用車がとまっている。鉄の門扉に顔を触れるようにしてロ髭の男に呼びかけた。
「ヨボセヨ!」
 男は不審げな様子を見せると小さな通用ロを通って入ってきた。守衛所の前で男とむかい合って立った。
「なぜ尾行するんですか!」
「知らないよ」
「なぜ!」
「友達がいる…」
 男は視線を逸らすと守衛所に入っていき、中の守衛たちと雑談をはじめた。彼らとは旧知の仲のようだ。
 夜八時、Y領事がKさんを伴って現れた。ロ髭の刑事はいつのまにか姿を消していた。領事は「しつこいやつだ」と呟くと守衛所からどこかに電話をかけた。相手は警察らしかった。しばらく韓国語の押し問答がつづいたあとで電話を切ると、領事は「話はつけた」とひとこと言った。
 「食事は?」
 領事が尋ねた。
 なにも食べていないことに気がついた。
 「かわいそうに。食事に行こうか」
 領事はそう言うとKさんに命じて宿を変更した。今度は領事館のすぐとなりにあるSホテルである。守衛に口止めすると裏口からそっと外に出た。
 その夜、領事が奢ってくれたタ食にはほとんど手をつけることができなかった。ひどく空腹をかんじているのに食べられない。空腹が食欲と離ればなれになっている。肉体と心理が乖離しているだけでなく、自分の全部がばらばらになっている気がした。自分が自分を支配しきれていない。お手上げになっている。自分がみじめだった。ネズミトリを目の前にしたドブネズミみたいなものだ。ただ、そういう自分を突き放して見ているもうひとりの自分もいて、自分自身の消耗と崩壊を綿密に観察して記録している。
 Y領事とKさんはSホテルの部屋まで送ってくれた。夜の九時すぎ、一番奥まった部屋に入るとY領事は言った。「あしたの朝、彼から電話させる。ここは安全だから。よく眠るように」
 だが彼らが帰って行くとまたひとりきりだった。ドアにかけた鍵などなんの意味も持ちはしない。わたしは結局は無防備であり、一瞬のあとの自分の運命すらわからない。十時、十一時。目が冴えていった。

 ドアの向こうに朴正煕が立っている。
 まっすぐで長い廊下は薄暗くて奥のほうはよく見えない。その廊下の一番手前の、わたしの部屋のドアのすぐ前に朴正煕は立っている。暗い色の背広姿で両手の指をまっすぐに伸ばし、脇にぴったりとつけている。天井の小さな明かりの直下にいるのでその表情は翳っていて見えない。しかしその立ち姿は背中に鉄の杭が入っているかのように硬い。人間として不自然なほどにまっすぐに立っている。強い意思によって立っているのではなく、まるで死者が直立しているかのようだ。
 彼はドアの前を動かない。彼が指揮しているのは死の部隊だ。部隊は近くに展開し終えている。そして深夜。急にドアがノックされる。その音が激しくなり、やがて乱暴に開かれると何人かの男たちが入ってくる。わたしの両腕を荒々しくつかむと路上に連れ出し、車に乗せて外出禁止令のもとで無人となった街路を疾走したあげく、ある建物に連れ込む。そこには何人かの男たちが待っている。彼らはなにもいわない。
 わたしは彼らに、いくぶん間隔をおいて、しかし正確に腹部を殴られる。胃の中にあったものを全部吐き出して気を失うと、冷たい水を浴びせられて意識をとりもどす。それがどれくらいくりかえされたか覚えていないくらいのあいだつづき、やがて意識が完全に断線する。気がつくまでにたぶん長い時間が経っている。なぜなら衣服が乾きかけている。コンクリートの床に倒れたからだがまったく動かない。全身から力が失われているし目も開かない。息をするのがひどく苦しい。
 両腕を抱えられて椅子に座らされると、ようやく尋問がはじまる。お前は共産主義者か。ちがう。韓国にきた目的はなにか。ただの観光です。どのセクトに属しているのか。どんな指令を受けたのか。韓国ではだれに接触することになっているのか。
 ボーッと炎が吐き出される音がする。バーナーだ。来た目的は?バーナーの音が近づいてくる。
 わたしが直接的にイメージしていたのは、この当時は獄中にあった反体制詩人の金芝河(キム・ジハ)の運命だった。彼の裁判のニュース映像で見た拷問の傷跡をおぼえていた。一九七〇年に当時の特権階級の腐敗を風刺した長篇詩『五賊』を発表したことで反共法の違反容疑で逮捕され、一九七四年には死刑判決を受けたこの詩人の顔はバーナーかなにかで焼かれたのだろう、ケロイド状になってひどくひきつっていた。
 金芝河が受けたようなはげしい拷問をわたしは恐れていた。取り調べを受けたなら、じっと座ったままで目をつよく閉じ、すすり泣きながら小便をもらし、ズボンを濡らしたままで暴力を待つだろう。相手が暴力をやめるまで、相手が気に入るまで、どんな告白でもするだろう。わたしは共産主義者です、破壊活動のために入ってきました、と。
 時計の針が零時をまわった。部屋の明りを消して暗がりの中でベッドに座っていた。ときどき窓に近寄ってカーテンの隙間から路上を見た。五階の窓から見える路上には誰もいない。それもそのはずでこの時間に外にいれば即座に逮捕されてしまうから、ひとのすがたが見えるはずがない。それを何度か繰り返すうちに、やがて疲労と眠気が勝ってきて、ベッドに倒れ込むとそのまま昏睡した。

 陸軍少将だった朴正煕は一九六一年五月十六日にクーデターを起こして権力をにぎり、一九七九年まで継続して権力を掌握していた。一九六三年から一九七九年までは大統領だった。わたしが訪れた一九七八年という年は足かけ十九年つづいた朴正煕の時代の末期にあたる。彼は翌一九七九年十月二十六日に韓国中央情報部(KCIA)の部長だった金戴元に射殺される。
 わたしの体験は朴正煕という人物がつくりあげた体制の末期の状況の中で生まれた。状況と深く関わっていたと言えるかどうかはわからないがそういう社会状況のなかで起きたのは事実だ。当時の体制にも社会にも朴正煕個人の思考や体質が色濃く反映していたに違いない。では朴正煕とはどんな人物で、どのようにして最高権力者にまでのぼりつめ、どう統治したのか。
 一九七八年、日本ではピンク・レディー山口百恵が全盛だった。サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でメジャーデビューし、『かもめが翔んだ日』(渡辺真知子)、『飛んでイスタンブール』(庄野真代)、『東京ららばい』(中原理恵)がヒットしていた。スペースインベーダーが登場し、成田国際空港が開港。日中平和友好条約が調印された年。カンボジアでは中国を後ろ盾に極左ポル・ポト派が自国民の大量死を進行させていた。イランではイスラム革命がはじまり、パーレビ王制が倒れようとしていた。アフガンスタンでは軍事クーデターが起きて共産主義政権が樹立されていた。アメリカと中国は国交を正常化しようとしていた。

 朴正煕の評価はいまだに政治的な思惑をともなっており、非情な独裁者という批判がある一方で、朝鮮戦争で疲弊していた韓国の経済を立て直し飛躍させた立役者という評価もある。韓国の経済発展が朴正煕の時代に進展したのはたしかなことで、経済的な発展を人権に優先させる、いわゆる開発独裁の典型と言っていい。
 一九五〇年代から一九七〇年のはじめまでは、韓国と北朝鮮の一人あたりDGPは拮抗していたらしいが、その後の北朝鮮経済が停滞したのに対して韓国は急成長をとげる。わたしが最初に韓国に行った一九七二年には北朝鮮経済は一時的ではあるが韓国をしのいでいたらしい。一九七八年には韓国の経済的な発展はたしかなものになりつつあり、一方で北朝鮮は停滞傾向が明らかになっていたと考えられる。ちなみに一九七八年の段階では日本と韓国の一人あたりDGPは三倍ほども差があった。

 朴正煕慶尚北道の貧しい農家に生まれた。優秀だが貧しい子どもたちにとって数少ない社会的な上昇の道のひとつだった師範学校に行き、卒業後は初等学校の教師をした。しかし教職を捨てて満州軍官学校入学する。軍人もまた出世の手段のひとつだった。満州軍官学校では優秀だったので日本の陸軍士官学校に行き、ここでも優秀な成績をおさめている。満州国軍での出世は約束されていたが日本が負けたために彼の軍歴は価値を失ってしまう。
 解放直後には満州から北京に脱出して一時は光復軍に加担する。重慶にあった朝鮮の臨時政府は自らの軍隊を持っていなかったので中国駐屯の日本軍のなかにいた十万あまりの朝鮮人将兵を光復軍(朝鮮独立軍)に編入しようとしていたが、そういう状況で朴正煕は舵を切ったことになる。
 一九四六年年五月に帰国した朴正煕は九月には朝鮮警備士官学校に入学する。この頃は朝鮮半島の米軍支配地域において共産主義勢力が力を持っていた時代だ。十月には大邱を中心に人民抗争が起き、共産主義者だった朴正煕の兄はこの抗争で警察に撃たれて死亡している。朴正煕南朝鮮労働党に加担し、軍内部の秘密細胞の構成員になる。
 終戦直後の朝鮮南部(つまり米軍の支配地域)では人民委員会を名乗る自治組織が生まれたが軍政はこれを封じ込めようとした。一九四六年十月、左派によるゼネストが起き、デモ、暴動へと発展する。この十月抗争で左派は壊滅的な打撃を受けたが済州島の左派だけは温存された。これに対して反共意識と済州島への差別意識がないまぜになって「赤い島」としての済州島は左派弾圧の標的になっていく。
 四七年三月、済州邑(現在の済州市)でおこなわれたデモに軍政警察が発砲して十数名が死傷したのをきっかけにゼネストが起き、これに対して警察が増強されるとともに右翼が来島して島民と左翼に対するテロ行為を行うようになる。この右翼とは北朝鮮から逃れてきたひとびとで構成される西北青年会というグループで、反共テロ、暗殺、対北朝鮮工作などを行ったといわれる。
 一九四七年八月以降、軍政の左派弾圧ははげしくなり、拷問やテロが行われた。済州島の中央にある漢拏山 (ハンラサン)には多くの洞窟があるが、左派の青年たちは山に逃れてこれらの洞窟を拠点に抵抗する。
 一九四八年に入ると左派は蜂起を決断する。四月三日、推定三〇〇人が警察支署と右翼を襲撃して武器を奪った。六月、米軍が指揮する軍と警察による鎮圧作戦がおこなわれて数千人が逮捕される。
 そういうなかで十月、麗水・順天事件が起きた。麗水駐屯の韓国軍部隊が済州島への派遣に抵抗して起こした反乱である。麗水では警察・右翼一二〇〇人が殺害された。当時の軍内部には左派の兵士も多く、これに対する粛軍の圧力も背景にあった。戒厳令の下で市街への艦砲射撃がおこなわれ、一ヶ月におよぶ鎮圧作戦ののち、左派は山に逃れて山岳地帯での武装闘争(山岳パルチザン)に移行する。智異山にはパルチザンの根拠地が置かれた。済州島では麗水・順天事件以降、中山間地域で左派が弾圧の対象になり、一九四九年春まで殺戮がつづいた。
 朴正煕が左翼容疑で逮捕されたのは麗水・順天事件が起きた翌月の一九四八年十一月のことで、逮捕されると一転して粛軍捜査に協力した。彼の自白と情報によって軍内部の細胞は壊滅する。一九四九年二月、軍法会議で死刑求刑。判決は無期懲役だったが刑の執行を免除される。取引があったのだろう。その年の十月には中国革命が起きて共産主義政権が成立。翌一九五〇年六月に朝鮮戦争がはじまると朴正煕は現役に復帰する。朝鮮戦争前夜の時代を朴正煕は転向によって生き延びただけでなく、共産主義勢力について熟知していたことで軍の内部で重用され上昇していった。

 朴正煕少将がクーデターを起こしたのは一九六一年五月十六日。その翌月には大韓民国中央情報部(KCIA)を創設している。初代の部長は金鍾泌キム・ジョンピル)。この組織は朴正熙時代の韓国で表と裏の情報収集に加えてさまざまな工作を実行した。監視、拉致、殺害、拷問をふくむ取り調べなどである。最盛期の組織規模は十万人だったという。大変な数だが北のスパイ組織との対峙に加えて国民の監視を実行するにはそれくらいの人数が必要だったということだろう。一九七八年に出会ったひとびとの中にもKCIAの要員がいたにちがいない。
 朴正熙が強力な情報機関を必要としていたのは時代背景を考えれば理解できる。北からのスパイが国内に浸透しているだけでなく、北の決死隊が大統領の官邸の近くにまで進出してくるような状況にあって、国家が生きのびるためにはインテリジェンスは絶対に必要な能力だった。
 一九六八年一月、北朝鮮軍の決死隊三十一名が韓国軍の制服を着て休戦ラインを越えた。彼らは民間人の服装に着替えて青瓦台に八百メートルまで接近したが警備の部隊と銃撃戦になった。その後の掃討作戦で二十九名が射殺、ひとりが自爆し、ひとりが逮捕されたとされている。
 このような状況下では朴正煕にとって北の脅威は抽象的なものではなかった。KCIAの暴力的な相貌は朴正煕が生きた時代の暴力性の反映で、朝鮮半島の置かれていた悲劇性の反映でもある。だがその後の時代の変化の中で、全斗煥時代に国家安全企画部に改称したKCIAは、金大中時代に入ると国家情報院に改組されてしだいに暴力的な性格を失っていった。

(つづく)

ドアの向こうに朴正熙がいた(2)

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2 尋問

 その後も質問は海の波のように引いては寄せてきた。恐らくこういった尋問の常套手段なのだろう、同じような質問がフーガのように繰り返される。
 質問は何人かの男たちから発せられた。わたしはひとつひとつ丁寧に答えていった。特に恐怖はかんじなかった。理由は簡単だった。彼らの疑惑を深めるような秘密を持っていなかったからだ。後ろめたくないからどんな質問にも答えられる。その意味ではわたしは自信満々であり、逆さにしても逮捕されるような証拠が出てくるはずがないことは、わたし自身が一番よく知っていた。

 しかし、時間が経過するうちにちいさな不安が生まれ、それがだんだん大きくなっていった。数人の尋問者を相手にしてよどみなく答えている。これはむしろ、危険な事態のはじまりではないだろうか?よどみのない返答は無辜の証明であると同時に完壁な準備と訓練の成果と見ることもできるのだ。
 その時までに、どうやら潜入してきた日本の過激派と疑われているらしいと想像がついていた。そして彼らが「インドから英国までの旅」についての質問を繰り返すところをみると、この旅に彼らの疑惑の原因があると思われた。

 彼らが関心を示した一九七六年から一九七七年にかけてのインドから英国までの旅とは、おおよそつぎのようなものだった。
 旅のきっかけはわたしの周囲でヒマラヤのどこかの山を登ろうという計画が持ち上がったことだった。その計画は頓挫したが、しかしヒマラヤでのトレッキングだけでも実現しようとプランを練った。結局、ネパールに行ってエベレスト街道(エベレスト南面への伝統的なルート)を歩き、プ・モリ(七一六一メートル)から下りてくる尾根の末端にあるカラパタールという丘(それでも高さは五五四五メートルある)まで行ったあと、イムジャ氷河を遡ってローツェ(八五四五メートル)の支峰であるアイランド・ピーク(六一六〇メートル)に登ることにした。それからインド、スリランカをまわり、アフガンスタンまで行ってからネパールに戻る計画だった。
 ところが旅の大半を終えてアフガンスタンに着いたとき、想像もしなかったことが起きた。わたしの買った航空券はアジアのある航空会社の発行した東京~カトマンズの往復だったが、カブールに着いた日に受け取った友人からのエアメールはその航空会社が倒産したことを告げていた。なんとかしてタイまで戻って新しい航空券を買うか、安い航空券が入手できるというロンドンまで行くか?結局ロンドンまで陸路でいくことを選択した。ヨーロッパに行けばアルバイトもできそうだった。
 ただし費用の問題だけで西に向かったのではなかったと思う。日本から遠く離れたアフガニスタンで帰るあてがなくなってしまった自分の境遇をおもしろがり、もっと遠くへと自分を追いやりたい、日本からもっと離れたいという衝動があった。
 その頃、トルコからイラン、アフガンスタン、パキスタン、インドを経てネパールまで、回廊のように連なるアジアの国々を細い糸のような陸の交通路が結んでいた。国境を越えて商売をする商人や、出稼ぎに隣の国に行くような人々のための交通路である。費用はきわめて安い。そうしたルートをヨーロッパやアメリカからやって来た貧乏旅行者の一群がインドや東南アジアを目指して移動していくのだった。
 できるだけ長く旅をつづけるために貧しい旅を選んでいた彼らにとってアジアへの旅の目的のひとつに麻薬があった。ネパール、インド、パキスタンあたりの安宿にはガンジャ(大麻のこと)の強い匂いがしみこんでいて、夜になるとその匂いはさらに強くなるのだった。
 わたしは彼らとは逆に川の流れを遡るようにしてロンドンを目指した。どの国にもある安宿を泊まり歩き、地元のひとびとが乗る乗り物に乗り、列車やバスを乗り継いで移動していった。ネパールから陸路でロンドンまで行くのには時間はかかったが、それほど困難な旅というわけでもなかった。
 もちろん危険がないわけではない。汚れたバックパックひとつで国から国へと放浪する貧乏な旅人はどの国でも疎まれ、差別される。外人のよく泊まる安宿では盗難が頻発する。貧乏人が貧乏人からわずかな金を盗むのだ。整備されていない道路を疾走するバスはよく事故を起こす。バスは増水したワジ(涸れ川)の茶色く濁った奔流を渡ったりもする。吹雪の雪原を走るときは視界が完全にホワイトアウトしてしまい、どこが道路かわからなくなる。山間部では山賊の襲撃を受ける地域もある。外人と見ると石を投げられることもある。
 アフガニスタンから見晴るかすロンドンはずいぶん遠かった。しかしとなりの町は決して遠くはない。そして陸路の旅というのは基本的にとなりの町への移動の繰り返しから成り立っている。となりの町への移動を繰り返すと、やがて大変な距離を移動してきた自分に気がつくのだ。そんな具合に尺取り虫のように移動をつづけているうちに、やがて気がつくと今まで見たこともない風土にいるのだった。
 一九七六年秋のインドではインディラ・ガンジーの強権が猛威を振るっていた。スリランカではタミル系ゲリラは蜂起していなかった。インドにも過激派はいた。ナクサライトと呼ばれる極左勢力がそれだ。一九六七年、紅茶の産地であり観光地としても有名な西ベンガル州ダージリン県にあるナクサルバリで最初の武装蜂起が行われたことから名づけられたというこの極左勢力は、紆余曲折はあったものの、暴力革命を掲げるグループが現在でも破壊活動をつづけている。
 一九七六年暮れのアフガニスタンは雪まじり。ソ連の戦車部隊はアム・ダリヤをまだ渡河していなかった。一九七三年にそれまでの王制がクーデターで崩壊したあと、新しい体制はソ連よりの政策をすすめていた。町ではソ連からきたひとびとを見かけたしキリル文字の看板も多かった。一九七六年から一九七七年にかけてのアフガニスタンはその後、現在までの長い期間にわたって失われることになる平和なアフガニスタン(傍点)の最後の瞬間だったといっていい。
 アフガニスタンでは翌一九七八年には軍事クーデターが起きて大統領一族が処刑され、共産主義の傀儡政権が樹立されて国名はアフガニスタン民主共和国に変更される。これに対してイスラム勢力が武装闘争を開始するとソ連が軍事介入して内戦はベトナム戦争のように泥沼化していった。ソ連軍は膨大な戦費と人的消耗に苦しんだ末に一九八九年に撤退するが、ソ連の崩壊にアフガニスタンでの消耗が大きく影響したという。その後もアフガニスタンは安定せずに現在にいたっている。
 一九七七年のはじめにはイランのパーレビ王朝は打倒されておらず、女たちはヴェールをかぶっていなかった。ギリシャは未だ軍事独裁政権が権力をにぎっていた。ユーゴスラビアパンドラの箱は閉じられたままで、チトーの下でセピア色に枯れて静かに眠っているように見えた。
 偶然はじまった無頼なヨーロッパへの旅だった。いつ終わるとも知れない。実際、日本への帰還は考えてもいなかった。

 尋問は二時間ほどもつづいただろうか。
 緊迫した空気がすこしずつゆるんでいった。
 男たちは目配せをしあい、尋問は終わる気配をみせた。
 「こちらへどうぞ」とエンジのジャンパーの男が言った。
 入管のカウンターまで戻ってようやく入国のスタンプを押してもらうと、次に税関のカウンターに行って荷物のチェックを受けた。驚いたことに税関の役人は荷物の中身をほとんど見ようともせず、かたちだけの検査で通してくれた。彼は疑っている様子もなく、むしろ面倒そうな態度で早々に検査を終えた。
 ジャンパーの男と一緒に外に出ると、彼はついてくるようにうながして歩きはじめた。小雨が降っている。彼は傘を差しかけてくれた。数分歩いて着いたのは入管の建物だった。まだ放免ではないらしいが、招き入れられたのは立派な応接室だった。ジャンパーの男が出て行くと、あとにはわたしひとりが残された。
 ふかふかのソファに埋もれるような姿で溜め息をついた。入管のカウンターにはじまって、ここに至るまでに十人以上の男が交代で質問を繰り返した。それなりに緊迫した時間ではあったけれども、わたしの旅行歴が疑惑を生んだとしてもそれは誤解である。事実、尋問は途中で打ち切られたようにみえる。おそらく疑惑は解けかけているとわたしは判断した。糊のきいた真っ白いカバーがかかったソファがずらりと並ぶ広々とした応接室。ここに通されたこと自体、その兆しではないか。
 疲れと空腹と眠気が一度にやってきた。そういえば東京を出て以来この二晩ともよく寝ていないし、きょうは朝から何も食べていない。

 …ソファに埋もれたままで眠り込んでしまっていたようだ。ドアが強くノックされると同時に背の高い制服の男が入ってきた。四十才すぎだろうか。ひきしまった体躯、精惇な雰囲気。入国管理事務所の役人の中でも高級な職位にちがいない。
 彼は日本語で「食事行きましょう」と言った。
 彼のあとについて部屋を出ると外には監視の者がいた様子もない。どうやら解放されるようだ。
 わたしを職員の食堂に案内すると彼は食事をおごってくれた。飯は職員が食べているものと同じであるらしかった。そこでも彼はいくつか質問をしたが、尋問ではなく世間話とでも言うような雰囲気だった。
 彼はわたしがなぜ疑われたのかを簡単に教えてくれた。
 まずパスポートのタイプの文字がおかしかったという。日本の外務省はこのようなタイプは使わないと彼は言った。言われてみればたしかに一般的なパスポートの文字とは違い、太めですこし滲んでいる。しかしそのタイプライターはニューデリー日本大使館で実際に使用されているものだ。インド製のタイプライターかも知れないではないか。
 次に彼が指摘したのは写真の検印の上下が逆だということだった。だがそう言われてもなんとも言えない。検印を押したのはニューデリー日本大使館の職員だから、その人物がまちがったのだろう。
 第三は彼らが繰り返し質問をしていた点である。インド、アフガニスタン付近は過激派養成の拠点になっているというのだ。
 そして最後に彼は「時期が悪かった」と言った。十月一日には国軍建軍三十周年のパレードがあるという。しかしそのこともわたしは知らなかった。
 アフガニスタンで密かに訓練を受けた日本人過激派が、国家的な行事の破壊を企てて潜入してきたというストーリーなのだろうか。わたしは三十才になったばかりだった。七十年安保の前後に盛り上がりをみせた日本の過激派とはほぼ同世代である。疑われるに十分な状況証拠にがんじがらめにされていたわけだ。

 入管の二階にある職員食堂からは窓の外に雨にけむったような釜山の町が見えた。遠くにみえる巨大なビルはホテルだろうか。高度成長をつづける韓国経済が窓枠のなかに見えていた。
 会話は途切れがちだった。向かいあって一緒に食事をしてはいるが、彼は国家権力であり、わたしはいってみれば被疑者でしかない。いまの瞬間に敵対してはいないが、友好的な関係とは決していえない。なによりも、わたしは自分のこれからの運命すらわからない宙ぶらりんの状態にいた。
 会話の接ぎ穂を探していた。彼にすりよりたいとは思わなかったが、その場の雰囲気をそれなりにやわらかくしたいという意識はあった。取り調べをつうじてストックホルム症候群に似た心理状態にあったのかもしれない。
 以前に新聞で読んだのを思い出して、「最近キムチが有料になったそうですね」と言ってみた。もともと韓国の食堂で出されるキムチは日本で言えばお茶のようなもので、いくらでも出てくるものだ。それが最近は有料のところが増えたというような内容の記事だった。
 男の表情が固くなった。
 「それはどこで知ったのか」
 「日本の新聞に書いてありましたよ」
 そう言ったものの、それから食事の間じゅうずっと彼の表情は警戒的だった。
 食事が終わると彼のオフィスまで一緒に行った。部屋全体を見わたす位置にある大きなデスク。そこの椅子に座るなり、彼は日本語で「ごくろうさん。もういいです」とわたしに言った。
 「これからどこに行きますか」
 彼が尋ねた。
 「晋州に行く予定です。それからは、三千浦、木浦、光州を回ってソウルに行くつもりです」
 「ここからだとバスがいいね」
 そう言うと彼は部屋の隅の壁ぎわにひとりで座っていた男を手招きした。それまで男がいることには気がつかなかった。それほど存在感の薄い男だった。いや、存在を消していたというべきかもしれない。
 「彼がバスターミナルまで送りますよ」
 小柄で痩せぎすで頭が禿げかかった、風采の上がらない中年の男。日本語は話さないらしい。黒っぽい背広はこの男には大きすぎ、しかもずっと着つづけているせいか、よれよれになっている。ズボンも靴もそうとうにくたびれている。ろくな学歴もないために出世の望めない人生を送ってきたにちがいない。
 男と出入国管理事務所の建物を出ると、小雨がやまず冷え冷えとしていた。タクシーでバスターミナルへむかう間、ふたりとも無言だった。となりに座っている男の正体は、そういえばわたしにはわかっていない。入管の職員かどうかもわからなかったが、わたしを監視しつつバスターミナルまで送るのが彼に与えられた仕事だというのは想像できた。
 バスターミナルへの道すがら、外の景色を見ていた。町はどれくらい変わっているだろうか。以前の記憶をたどって町の変化をたしかめようとしたが集中できなかった。
 バスターミナルに着くと男は両替してやろうかと身振りで示した。あわただしく出てきたので両替をするのを忘れていたのだった。彼はポケットからしわくちゃになった紙幣の束を取り出すと、わたしの差し出した一万円を両替してくれた。
 晋州行きのバスはエンジンをかけていてすぐにでも発車しそうだった。あわてて切符を買ってバスに乗り、窓の外に立っている男に手を上げると、彼もわかれのしぐさをした。バスが動き出してから振り返ると男がおなじ場所に立ったままでいるのが見えた。
 釜山を出発したのは午後二時半だった。バスは雨で濡れた高速道路に入ると西に向かった。立派な高速道路だが交通量はかなり少ない。道路の脇にはコスモスがいっぱいに咲いている。ピンク色のコスモスが窓の外を際限もなく流れていく。
 車窓からは新しく建てられたと思われる瓦屋根の農家が目についた。六年前には農家といえば茅葺きの印象があったが、今はほとんど見られなくなっていた。これが維新体制下ですすめられた農村近代化運動であるセマウル運動の結実なのだと思った。一九七二年の最初の韓国への旅ではセマウル運動がはじまったばかりの農村部を目撃したが、今またセマウル運動の成果を目の当たりにしていた。

 発車して一時間ほども経った頃だろうか、となりの席に座っていた若い男が遠慮がちに英語で話しかけてきた。学生だと言う彼はバスが発車して以来、となりにすわった日本人に話しかけたい衝動と戦ってきたのだった。そういう彼の気持ははじめから手に取るようにかんじていたが、ゲームにはやはりルールと言うものがある。
 旅人に話しかけてくる他人はコンビュータゲームに登場する謎の小箱のようなものだ。彼は詐欺師であるかも知れないし旅人を秘密の花園に誘う兎かも知れない。その人物を信じるかどうかは、結局のところ自分の直感と経験だけが頼りだ。わたしの場合はこういう機会をポジティブに受け止めてきて、その結果としていくつもの幸運にめぐり会ってきた。出会ったばかりの人物の家に泊めてもらったことも一度や二度ではない。
 旅人に話しかけてくる人物にまつわる悪い話を山ほど聞かされてきたし、危険は少なくなかったが、思いがけない体験は臆病からは得られないというのがわたしの考えだった。そしてわたしのカンはこの学生は信用できそうだといっていた。
 晋州のバスダーミナルに着くと彼は先に立って歩き出した。一緒に宿を探してくれるというのだ。韓国の田舎町はすこし退色したような灰色がかった町並みがつづいている。そしてわずかに埃っぽい。晋州もそうした地方都市のひとつだ。そんな町の大通りを、今し方知り合ったばかりの学生と歩いていく。町の人々はまったく興味を示さないが、彼らはわたしが日本人だとすぐにわかり、となりを歩く学生との関係をいぶかることだろう。
 晋州の市街地は南江(ナムガン)という大きな川の両岸にひろがっている。南江は洛東江(ナクトンガン)の支流のひとつだ。洛東江の源流は太白山脈にあって、安東盆地、大邱盆地を経由して南下し、は釜山の西で対馬海峡に注いでいる。一方、南江は晋州から東に流れて洛東江に合流している。バスターミナルは南江の南側にあり、国鉄の晋州駅もその近くにある。旧市街は川の北側にあり、川沿いには有名な晋州城跡がある。

 彼が案内してくれたのは旧市街地にある韓国式の旅館だった。建物は古い平屋で中庭があり、客の部屋や旅館の住人の部屋が取り囲んでいる。宿の主人は突然訪れた日本人に面食らった様子だったが、学生の説明を聞くとうなづいて部屋に案内してくれた。質素だが清潔な部屋。学生も部屋まで入ってきていろいろと説明してくれる。
 荷物を部屋に置くと彼とふたりして町の散策に出かけた。町を歩きまわり、学生と別れて宿に戻ったのは夜七時を過ぎていた。主人が笑顔で迎えてくれる。
 その夜は決して豪華ではないがにぎやかな夕食だった。皿数の多さは韓国の食事の特徴といっていい。食卓いっぱいにたくさんの漬物や煮魚が並べられた。部屋に度々出入りしては、主人は何くれとなく面倒を見てくれる。いかつい体躯の男だがこころやさしい気性が見て取れた。
 食事が終わる頃、脇に座って食事を見守っていた主人がおずおずと話しはじめた。日本語だった。訥々と、しかし懸命に思い出しながら、彼は日本語を絞り出そうとしている。
 「むかし習ったんだけど…もう忘れて…うまくないです」
 「そんなこと、ないですよ。上手です」
 「いや…だめ…ずっと使ってないですから」
 どこから来たか。なぜ、この町に来たか。明日はどこに行くのか。旅人は旅程を説明するだけで会話をつづけることができる。そうした会話が無意味かと言えば、そうとも思われない。どこからきたか。どこに行くのか。旅が長ければ長いほど、その問いは重みを増していくものだ。
 そんなふうにして話すうちに、主人の日本語に命が吹き込まれ、少しずつ滑らかになって行くのを魔法を見るようにして見ていた。彼のことばはゆっくりと、だが確実に、輝きを増していった。そして彼の目もまた輝いている。何かが彼のこころの中で起こっている。頑強な体格の初老の男が、正座して頭を拳骨で叩きながら、古い昔に習って忘れてしまった日本語を懸命に思い出そうとしている。年令からしても植民地時代に日本語教育を受けた世代だ。しかし敗れた日本がこの町を去ってからの何十年、この人物が日本語を話す機会はたぶんなかったにちがいない。
 主人と話しつづけて夜の十時をすぎた頃だった。突然、ふたりの男が現れた。
 「臨検」
 背の低い中年のほうが廊下に立ったまま、部屋の中に座っていたわたしを見下ろして言った。その男の背後に背の高い若い男が庭の方を見るような風情で立っている。刑事にちがいない。宿の主人は硬直して座ったままだった。
 中年の刑事は部屋に入ってくるとわたしの前に膝を触れるような距離で座り、主人のほうを向いて何ごとか尋ねた。主人は哀れなほどに脅えていた。そのあいだ、若い男は廊下であぐらをかき、真っ暗になった中庭を見渡している様子だ。しかし彼が見ているのが庭ではないことは明らかだった。
 主人との話が終わると中年の男はわたしを見据えてゆっくりと言った。
 「どこから来ましたか」
 日本語だった。
 「釜山からです」
 「これから何処に行きますか」
 「明日は三千浦。そのあとは木浦、光州などに行くつもりです」
 「そう。ここからならバスがいいね。簡単だよ」
 「ええ。そうするつもりです」
 「ところで、あんた英語うまいらしいね」
 「…」
 かたかた。かたかた。
 正座して座っていたわたしの膝が震えはじめた。
 かたかた。かたかた。おもしろいように震えている。だが耐えようとしてももはやわたしの膝ではない。わたしの言うことを聞いてはくれない。わたしは怯えている。自分自身を不思議な生き物のように見ながら、もうひとりの自分が言った。
 彼らが部屋にいた時間は長くはなかった。ひっそりと座ったままでわたしを見据え、いくつかの質問を追加したあと、彼らは三千浦への行き方をこまごまと教えてくれ、そして帰っていった。あとから考えればそれは取り調べではなくて雑談のようなものだったかもしれない。しかし宿の主人は明らかに憔悴しきっていた。そして二度と目を合わせようとしなかった。

 主人がいなくなってから布団を自分で敷いてその上にごろりと横になった。部屋の電気を消す気にならなかった。蛍光灯の白い光が目を射る。からだの芯まで疲れているにも関わらず、神経がたかぶっていてギラギラしている。
 どうやら取り返しのつかない事態に陥りかけているらしかった。この旅のはじまりが暗示していたものの正体がようやく開示されたことに気がついた。東京駅を『あさかぜ1号』で出発したタ暮れから胸が騒ぎ、不安が離れなかった。不眠の夜をすぎて下関に到着しても、だるい体に不安が重くのしかかっていた。海峡をフェリーでわたる夜も、煌々と海を照らす漁船の明りを見て不安ばかりが育った。それは今日のできごとを予感した不安ではなかったか。
 悪い状況にいるときには、そこから抜けだそうとあれこれ考えること自体が自分を支える。わたしはにわかに分析的になり、状況をできるだけ客観的に分析して打開の方策を考えようとしはじめた。
 まずは冷静に状況をつかもうとした。論理的に考えればわたしは何もしていないから、そのことがわたしの安全を保証するはずだ。彼らが調べれば調べるほどわたしの安全は保証されるはずだ。パスポートは「インド製」だが、在外公館がパスポートを発行するのは通常の業務の一環だ。そのことを疑われる筋合いはない。
 そう思ってみればいくつかおかしな点がある。まず身体検査すらされなかった。普通だったら所持品の検査をするだろうし衣服を全部脱がされもするだろうが、税関を通る時ですらその検査はおざなりなものだった。所持品の中で彼らの手に渡ったのはパスポートだけで、その他の持ち物はわたしの手を片時も離れたことがない。なぜ身体検査をしなかったのだろうか?そこまで疑っていなかったのだろうか。
 しかし。と、もうひとりのわたしが言った。出入国管理事強所から警察に連絡したのはたしかだ。さっき来たのは地元の警察だろう。彼らはわたしに関する詳細な報告を持っていることをほのめかしていった。自分についての情報がいくつもの脂で汚れた指で触れられたのだ。
 もう一度かんがえた。なにもしていないことがわたしの安全を保証するだろうか。わたしの勘によればその点については懐疑的にならざるをえなかった。調べても何も出てこないということは、その人物が無実であるか、調査する側の能力を越えるほどに高い能力を有する組織の挑戦であるか、そのどちらをも意味するのだと再びかんがえた。いずれにせよ、猜疑心を職業上の美徳と見なしている連中から見て、わたしがあらぬ妄想を育てる厄介な被疑者であることはたしかなようだった。
もう一度、今日のストーリーを反芻してみた。入国審査の役人に韓国語で挨拶したのが災難のはじまりだった。しかし、わたしが何らかの工作を企てていたとしたら、そんなときに韓国語で挨拶をするだろうか?しない。と、もうひとりの自分が言った。彼らの問いに対して英語で返事したが、そのこともまた疑われた。日本人で英語ができるのは変だということだろう。我が同胞たちはずいぶんとなめられたものだ。
 わたしの旅の履歴。これはたしかに普通ではない。学生でもないのに半年にわたって南アジアからヨーロッパまでの陸路の旅をするなどと言うのは普通ではない。三十代に至っても将来を見定めることができない自分を、その時はじめて少しだけ悔いた。部屋の周囲は物音もしない。おそろしいほどの静けさ。自分があまりにも無力であり、日本に逃げ帰ることもできないという境遇がしめつけるように迫ってくる。どうしたらいいのか。
 だが考えることに没頭するうちに恐怖は薄まっていった。その時までにいくらか落着きを取りもどしていたわたしは旅をつづける気になっていた。自分が無実だということに自信を持っていたが、現実的な解として、釜山の日本領事館に連絡をとろうと思った。それまでの旅の経験のなかで日本の在外公館に対する個人的な印象は悪くなかった。大使館気付で郵便を受け取ることができたし大使館に備え付けられた伝言箱のようなしくみを使ってほかの旅行者とメモを交換することもできた。だからアジアからヨーロッパへの旅の途上で、必ず日本の大使館に立ち寄ることにしていた。ある国の大使館員は宿の宿泊料金を払った払わないでトラブルになったわたしのために、こちらの主張を現地語に翻訳して長い手紙を書いてくれた。そんなことも背景にあったから領事館に連絡しておこうと思ったのだった。
 ただしそれは助けてくれということではなくて、こういう状況に遭遇したという事実の報告の意味あいが強かった。その後に事態がもっと悪くなったときのための保険あるいはリスクヘッジというのが正確なところかもしれない。領事館に自分の状況を伝え、日本という国家がわたしの状況を情報として持っていることが安全を保証する一番いい方法のように思えた。
 そこまで考えて一息ついた。ひどく疲労しているのがわかった。恐怖は体の隅に未だに巣食っていたが、まあなんとかなるだろうと思い、淵に引きずり込まれるように眠りに落ちていった。

(つづく)

ドアの向こうに朴正熙がいた(1)

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プロローグ

 二〇一三年二月、パク・クネ(朴槿恵)が大韓民国の第十八代大統領に就任したというニュースを聞いたとき、のちに文世光事件と呼ばれることになる大統領狙撃事件で射殺された母親のユク・ヨンス(陸英修)の葬儀に参列した彼女の姿を思い出した。
 陸英修が撃たれたのは一九七四年。大学を出てフランスに留学したばかりだったパク・クネは急遽帰国すると母親に代わってファースト・レディ役を務めることになった。その五年後の一九七九年にパク・クネの父親で大韓民国の大統領だったパク・チョンヒ(朴正熈)も射殺される。それからながい時間が経ち、大統領として政治の表舞台に現れたパク・クネはすでに六〇歳になっていた。
 ニュース映像の中のパク・クネを見ながら感じたのはまず時の流れそのものだった。時の流れは大学を出たばかりの娘を、四〇年を隔てて六〇歳の女性大統領に変える。
 それから朝鮮半島の現代史の激烈な歩みだ。戦後の韓国でパク・クネ以前に大統領を経験したのは臨時代行などを除けば一〇人いるが、そのうち初代のイ・スンマン(李承晩)は失脚・亡命、ユン・ボソンはパク・チョンヒ(朴正熈)によるクーデターによる失脚、パク・チョンヒ(朴正熈)は部下に射殺された。チェ・ギュハ(崔圭夏)はチョン・ドゥファン(全斗煥)らによる軍部クーデターにより失脚。チョン・ドゥファン(全斗煥)は退任後に逮捕され死刑判決(のちに特赦)。ノ・テウ(盧泰愚)は退任後に懲役刑(のちに特赦)。ノ・ムヒョン盧武鉉)は退任後に捜査を受け自殺。キム・デジュンは大統領になる以前、日本滞在中に拉致されて殺害される寸前まで行った。荒ぶる歴史と言っていい。
 ニュースを見ながらパク・クネの父親のことを考えていた。朴正熈が政権を握っていた時代の韓国で経験したその荒ぶる時代の手触りのようなものが今だにわたしの内部に残っている。

 

1 旅のはじまり

 一九七八年九月二十七日の朝九時すぎのことである。
 前日の夕刻に東京駅を出た寝台特急あさかぜ1号』が下関駅に到着してプラットフォームに降り立った瞬間、蒸せたような生暖かい空気に包まれた。ポロシャツ一枚でいても汗ばむような曇り空の朝だ。
 『あさかぜ』はいわゆるブルートレインのひとつで、一九七八年にはすでに山陽新幹線が開業していたから寝台特急に乗る必然性はなかったが、その時代遅れでロマンチックな雰囲気を好んでいたわたしは迷うことなく『あさかぜ1号』を選んだのだった。
 しかし期待はすくなからず裏切られていた。楽しみにしていた寝台特急の旅だったが夜通しよく眠ることができなかった。そのせいで体がだるく、濃厚な疲労感があり、一方でなにか息が詰まるような、あるいは息を吐きすぎるような感覚があった。理由のわからない、得体のしれない不安にとりつかれていたが、それはこれからはじまろうとしている旅に対する不安のあらわれだったかもしれない。
 下関に来たのはその日の夕方に出航するフェリーで釜山(プサン)にわたるためだった。だから意識はすでに異郷に向いており、下関ではするべきことが見つからなかった。駅前に立ってすこしのあいだ思案していたが、まだ朝だというのにフェリーが出港する夕刻までの長い時間をどう過ごすかにうんざりしていた。結局は手近な喫茶店に入り、腰をおろすとようやくほっとした気分になった。
 持ってきた荷物はごくわずかだった。パスポート、フェリーの切符、そして旅行ガイドのほかにはわずかな衣類くらいでカメラも持っていなかった。いまでも不思議に思うのだが、カメラを持たないほうがいいという漠然とした予感があった。荷物が軽いのは旅には便利だが、あとから思い返してみても異様なきりつめ方だった。
 パスポートを取り出してページをめくってみる。
 ずいぶんたくさんのスタンプやビザ。これまでの旅の痕跡をみるのはなかなか楽しいが、海外に出ればこの小さな冊子がわたしの存在を証明する唯一の書類ということになるのだと、ひとごとのように考えていた。
 日本のパスポートにはつぎのように書かれている。

 「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」

 保護と扶助。
 その言葉の具体的な意味について考えたこともなかった。

 韓国に渡ってからの旅程は特に決めていなかった。
 釜山から朝鮮半島の南西部にあるチンジュ(晋州)、サムチョンポ(三千浦)、モッポ(木浦)、グヮンジュ(光州)といった地方都市をめぐってソウルに行こうと一応は考えていたが、これといった目的もなかったし、すべてが行き当たりばったりになりそうだった。
 わたしが旅しようと考えていた地域は行政区分でいえば慶尚南道全羅南道にあたる。以前の旅では慶尚北道江原道、ソウルを通過していたが半島の南西の地域はわたしにとっては空白地域だった。釜山は韓国で二番目に大きな都市で、旺盛な活力に溢れた港湾を抱いた港町。晋州は釜山から西に高速バスで二時間ほど行ったところにある地方都市。更にその先にある地方都市を列車やバスでのんびり回っていこうと考えていた。

 韓国は二度目だった。
 六年前の一九七二年三月におなじ関釜フェリーで韓国に渡ったことがあったが、それが最初の韓国への旅で、わたしにとっては最初の外国でもあった。その半年後には十月維新があり、すでに大統領になっていた朴正煕は独裁色を更に強めていった。
 最初の渡海のときの対馬海峡は荒れていた。下関を出航したフェリーが大小の船で混雑する関門海峡を出て玄海灘へと進むにつれて波が高くなり、じきに船はローリングとピッチングを混ぜたような荒々しい揺れ方をするようになった。
 二等船室にいたわたしは吐きつづけて胃の中が空っぽになり、胃が収縮してねじれ、あとからあとから吐き気が襲ってきて、しかし吐くものはもう何もなかったので吐く動作だけが発作のように繰り返された。パントマイムのように滑稽な姿だった。
 その夜、対馬海峡のあたりを二つ玉低気圧が通過しているらしかった。四千トンのフェリーは時々海面を横滑りするような揺れ方をした。巨人の手がわたしたちの運命を弄んでいる。
 深夜になる前にあたりは少し静かになり、やがて嵐は遠のいていった。深夜の零時をすぎた頃、船が停止したので消耗しきった体を他人のからだのようにかんじながらデッキに出てみると、フェリーは釜山の港の中に投錨して静かに停泊しているのだった。
 乗客はみな寝入っている。デッキはしんとして、ことりと物音がすることもない。舷側を時おり波が洗うが、その音はひそやかだ。目を陸(おか)の方にやると、わずかに港の明りが見えた。一列にならんだ白いちいさな点は街路灯にちがいない。しかし町は黒く沈み込んでいてひとの動く気配はまったくない。
 一度死んでしまい、あっちの岸からようやく生きて帰ってきたような気がした。ひどい船酔いが自分が生まれて育った国からこの国への旅をふたつに断ち切ってしまったように思えた。
 釜山に上陸したときの第一印象はよく憶えている。
 すこし歪んだレンズを通して景色を見ているような気がしていた。景色が歪んで見えるばかりではない。あたりにひしめいている韓国の人々もまた、歪んだ景色の一部だった。
 歪んでいるという意味はこうである。
 景色は日本のものではない。どこか日本に似ているが微妙に違う。その違いをひとつひとつ挙げていけば疑間は解けるのかもしれないが、どれが同じでどれが違うと指摘されて納得するようなたぐいの疑問ではない。人々の顔や体格や肌の色は日本人に似ている。しかし日本人ではない。その時かんじたのは、たしかに似ていることから来る困惑だった。
 徴妙な歪みの感覚は時間の流れ方にも由来していた。昔の日本に来た気がした。似てはいるが違う人々。すこし過去を流れている時間。眩暈がするようだった。
 このときの旅の目的は朝鮮半島の背骨にあたる太白山脈の最高峰である雪岳山(ソラクサン)に登ることで、わたしはちいさなパーティの一員として韓国に渡ったのだった。雪岳山の標高は一七〇八メートル。日本でいえば奥秩父のような山容で森林でおおわれているが、花崗岩のするどい岩峰も多く、その景観は山水画を思わせる。
 釜山からソウルに行き、東馬場(トンマジャン)のバスターミナルから百譚寺(ペクタンサ)までローカルバスに乗った。そこから歩き始め、山中の仏教寺院に一泊したあと、山頂を踏んで日本海側に下りた。
 登山行動を終えて仲間たちが帰ったあと、ひとりで釜山に戻るとそこはもう懐かしくて勝手のわかった町のように思われた。
 釜山は南の商都であり、人々のしゃべり方は早口でロ調は多少荒い。町は灰色の質感が圧倒的だ。港の背後にはいくつもの丸い丘があってその上には貧しい人達が住んでいる。海面に近い、低いところには繁華街がある。
 とくに目的もなかったが帰るのが惜しかったから韓国式の安宿に泊まり、ずるずると居つづけた。ビザは十五日の滞在を許していたが期限が迫って来たので出入国管理事務所に行った。ビザの延長をしたいと片言の英語で言うと、こっちへ来いと言われて通されたのは幹部職員の席だった。よく肥えた彼は英語で「延長したい理由を言いなさい」と質問してきた。わたしはたじろいで「もうちょっと観光をしたいもので…」とロ籠もるしかなかった。すると「ステートメント」と最初に応対した所員が言った。英文で滞在延長の理由を書けというのである。その場でなんとか文章をでっちあげて提出すると、読むなり所長は鼻先で笑ったものの滞在延長は許可してくれた。次に彼は「インジ、インジ」と言う。インジとはなんのことか?考えていてふと気がついた。印紙を買って来いと言っているのだ。こうしてさらに十五日の滞在が認められたわたしは意気洋々と宿に引きあげた。
 光復洞(クヮンブクトン)から少し入った龍頭山公園の足元にある宿に戻ると、女将や働いている皆が滞在延長を喜んでくれた。実際、わたしは何日か泊まるうちに彼らから家族のような待遇を受けていたのだった。
 女将は四十代だっただろうか、片言の日本語を話す水商売上がりといった風情の女だった。会話学校に行って日本語を習ったという彼女はわたしの部屋にやって来ては長い時間座り込んであれこれ世間話をしていくのだった。話の内容は自分がはじめようとしている小さな事業のことであったり、景気のことであったり、日本と日本語についてであったりした。
 旅館にはいろいろな人物が出入りしていた。
 女将の知り合いの若い女が時々遊びにきた。彼女は女将がはじめようとしている喫茶店で働く予定だといい、それまでは男の相手をして稼いでいるのだった。日本人の相手もするのだろう、簡単な日本語を話した。
 宿には六十代と思われるおばさんもいた。彼女は日本人に警戒心を持ち続けているようで、親切に身の回りの世話をしてくれたものの、決して心は許さないぞといった雰囲気がありありと感じられた。
 その宿はいわば商人宿であり、客は常連ばかりのようだった。その中でわたしは奇妙な存在であったにちがいなく、泊まり客が部屋を覗きに来たり(実際に部屋の引き戸を細めに開けて覗くのだ)、誰かの知り合いらしい女子高生がなぜかいつまでもわたしの部屋にいたりした。
 迷いこんできた日本人の学生は彼らにとって恰好の話題であり、遊び道具であり、好奇心の対象になっていた。宿の人々はわたしの部屋をサロンのようにして使ったし、来客までもがまるで交差点のように行き来した。なにやらわたしはそのあたりにいる人々と肌すりあわせて過ごしていたわけである。
 だれもがまったくの庶民だった。その当時の韓国の庶民の実態が目の前で展開されていてそれらにわたしは素手で触れていたし、彼らはわたしに素手で触っていた。
 あるとき女将が魚を食べに行こうと誘ってきた。ようするにたかろうという魂胆だ。この頃の韓国の一人あたりGDPは日本の三分の一くらいだったはずだ。
 タクシーで影島(ヨンド)の向こうにある漁港まで行った。宿の前の路上で煙草屋を営んでいる女も一緒だった。彼女はマッチ箱のような(日本で言えば宝くじの売り場のような)売店を宿の前に構えていて、わたしもそこによく買いに行っていた。
 ふたりは仲のいい中学生のように腕を組んで港に突き出た防波堤の上をはずむように歩いて行く。そのあとを海風に吹かれながらついて行った。
 防波堤の上に粗末な小屋が並んでいて、漁師の奥さんたちが獲物を金盥に入れて売っている。食べたいものを指差して選んでから小屋に入って待っていると、たちどころに調理して運んできてくれる。わたしたちは巨大なアナゴと赤貝を選んだ。
 まず穴子の血がグラスになみなみと注がれてきた。わたしは遠慮したが彼女たちは嬉々として飲み干した。そしてアナゴの刺身と赤貝。たっぷりと刺身を食らい、韓国製のビールOB(オリエンタルビール)を何本か空けて昼間だというのに機嫌がよくなった三人は、またもタクシーに乗って帰還するのだった。
 夜は町を歩いた。
 夜の釜山は深海の底のようだった。裸電球がきらめき、屋台が並び、ひとびとのざわめきが波のように押しよせてくる。この景色は昔どこかで見たに違いないと思った。小さかった頃に池袋の駅前にまだあった闇市の名残り。あれに違いない。その後、いくつかの国を訪れるようになって、異国の旅は時間の旅でもあると思い知ったのだが、その感覚に最初に出会ったのが釜山だった。
 港町というのはなかなかいいものだと思いながら町を歩き回った。開かれている。浮気だ。深刻にはなりたくない。流行(はや)りには敏感だ。キザで見栄えも気にする。浪費的で享楽的。別れるさびしさに慣れている。…
 あるとき町の食堂に入るとテレビではプロレス中継をやっており、何人かの男の客が見入っていた。日本人の悪役が卑怯な手を次々と繰り出して韓国人のレスラーをいじめ抜く。耐えていた彼は観衆の大歓声のなかでようやく立ち上がると怒りをあらわにし、反撃にうつる。食堂の客たちは身を固くして画面を凝視している。
 悪役の日本人をやっつけている韓国人レスラーに見覚えがあった。日本では大木金太郎というリングネームを持つレスラーである。彼が韓国ではキム・イル(金一)と名乗る国民の英雄であり、大衆に代わって日本への恨みを晴らしていることをそのときはじめて知った。
 前の席でテレビを見ていた客の椅子の足がわたしに触れた。シルレ・ハムニダ(すみません)と男は振りむいて詫びを言い、うしろに座っているのが日本人である事に気づいた。しかしわたしは袋叩きにもされず、むしろ男の恐縮したような背中を見つづけることになった。大木金太郎は当時四十九歳。全羅南道出身で、力道山に憧れて一九五八年に日本に密入国し、力道山の政治力で日本滞在を許されたという彼は、日本と韓国を行き来しながらリングに上がっていた。
 子どもの頃にプロレス中継で力道山を見たことがあった。当時のプロレス中継はテレビ放送における人気の番組のひとつであり、すべてが生中継だった。個人でテレビを見る視聴行動が生まれていない時代だったからテレビの前にはいつも家族の全員がいた。アメリカ人の悪役を空手チョップでやっつける力道山に当時の日本人はカタルシスを味わったはずだが、その彼も大木金太郎朝鮮人であることを当時のわたしは知らなかった。プロレスが台本のあるショーであることをかんじてはいたものの、ときに予定外の血が流されることもあって、その危うさに惹きつけられるという側面もあった。

 夕刻、下関を出港した。
 ありとあらゆる種類の大小の船で賑わう関門海峡を抜ける間、海は静かだった。だが六年目の旅の記憶があったから、外海に出れば揺れが強くなるはずだと思い、覚悟を決めてデッキの風に吹かれていた。
 だが玄海灘に入っても海は静かなままだった。あたりは暗くなり、二等の船室は客の寝息が聞こえるほどになった。夜が更けていき、横になったまままんじりともせずにいると、窓の外が奇妙に明るくなった。気になってデッキに出ていくと、油を流したように静かな海面をフェリーは滑るように進んでいて、周囲の海上には無数の漁船が漂泊しているのだった。漁船にはどれも人影が見えない。しかしそのそれぞれに巨大な照明灯が鈴なりになっていて、海面を真昼のように照らしている。
 船団の只中を抜け出るとまた闇が訪れた。曇っているのだろうか、星は見えない。ゆれに悩まされることもなく深夜の釜山港の沖に到着するとフェリーは錨を下ろした。

 

2 上陸

 朝八時すぎ。フェリーは港内の投錨位置を離れて岸壁に横づけした。
 デッキから見る釜山の町は六年前とはずいぶん変わっているように思われた。フェリーターミナルの建物は立派になり、巨大化していた。丘に目をやるといくつかの高層の建築が見えた。曇り空の下でも、かつては灰色だった町並みが以前よりも明るい色調に覆われつつあるのがはっきりとわかった。
 船を下りた乗客たちはイミグレーションにむかう。列をつくってパスポートのチェックを受けている最後尾あたりにならんだ。
 わたしの番になった。
 カウンターの前に立ってパスポートを差し出すと「アンニョン・ハシッムニカ」と係の役人に言った。ちょっとしたあいさつのつもりだった。
 それを聞いた瞬間、うつむいて入国ビザのあるページをのぞき込んでいた役人の顔がこわばった。痩せて筋張ったかんじの男だった。顎が張っていて太い黒縁の度の強い眼鏡をかけている。レンズがずいぶん分厚いなと思いながらその表情を見ていた。彼はなにか書類を引っ張り出すと、あわただしくあちこちページをめくっている。かなり焦っている様子だ。
 何分か経った。ようやく顔を上げると、彼はすこし待てと手で合図して席を立った。取り残されたわたしは急に不安になっていた。なにかが起こったのはまちがいない。疑われているらしいことは雰囲気から読み取れた。しかし理由はなんなのか。思い当たることはなかった。わたしの素性にもパスポートにも問題はないはずだった。

 フェリーの乗客たちが入国審査を終えて立ち去り、あたりに人影がまばらになった頃、小肥りの男がこちらに向かって歩いてきた。手にわたしのパスポートを持っている。さきほどの入国審査官が彼に従っている。
 男はエンジ色のジャンパーにグレーのズボン、黒の革靴。髪は短く刈り込んでいた。
 彼は英語で穏やかに切り出した。
 「失礼ですが、韓国ははじめてですか?」
 物腰は柔らかいが、威圧的なものが隠れているような気がした。
 いえ、二度目です。わたしは丁寧に応答した。
 「ご職業は?」
 わたしは口ごもった。仕事を辞めて旅に出たのでそのときは無職だった。しかし無職では疑われるに違いないと思い、とっさに前の職業をロにした。
 男は、なるほど、という感じでうなづくと、次の質問をした。
 「ところで、いろいろな国に行っていますね」
 「はい。旅行が好きなので」
 男はパスポートのページをめくりながらスタンプを確かめているようだった。
 わかりました、では行って下さい。と彼が言うと期待していたのが裏切られたのは一瞬の後だった。
 彼は「こちらに来て下さい」というと、入国審査カウンターのむこう側ではなく、脇にあるドアの方へ、自分から先に立って歩きだしたのである。
 取調べがはじまるのだぞ。と、誰かが宣告した。

 通されたのはずいぶんと細長い部屋だった。応接室のようだ。白いカバーのかけられたソファがいくつもつないで置かれた低いテーブルを囲んでいる。そこに五、六人の男女が立ったままで待ち構えていた。おそらく彼らの全員が入管の職員と思われた。
 わたしが腰を下ろすと、エンジのジャンパーの男がとなりに座った。他の男女はわたしたちをU字型に取り囲むように立ったまま見下ろす恰好になった。その中のひとりの女が手にメモ帳を持ち、一言ももらさずにメモをとるぞという意気込みで待っている。
 尋問のはじまり。と、誰かが囁いた。
 質問が次々に飛んできた。英語だった。主にエンジのジャンパーの男が質問し、わたしが答える。わたしたちの問答を注意深く聞いている他の職員が、わたしの応答の隙間に潜む齟齬を発見し、そこを突破口にして正体を見破ろうという作戦のようだった。
 「いろいろな国に行っていますね」
 「ええ」
 「旅行の目的は何ですか」
 「観光です」
 「観光…ずいぶん長い観光ですね」
 「ええ。インドには遺跡を見に行きました。アフガニスタンやイランにも、同じ目的です」
 「職業は?」
 「××の関係です」
 「よく休みが取れましたね、こんなに長い旅行で」
 「辞めて行ったわけです」
 「こちらには知人はいますか?」
 「特にいません」
 「身元を証明するものは?」
 「特にありません」
 「インドから英国まで旅行していますね、一九七六年から七七年にかけて。その時の資金はどこから出たのですか」
 「資金!貯金からです。たいした金額じゃないし」
 「そんなことはないでしょう。ずいぶんかかったんじゃありませんか」
 「いや。日本円にして百万くらいでしょうか」
 「全部で?」
 「そう」
 「信じられませんね」
 「事実ですよ」
 「パスポートはインドの日本大使館で発行されていますね?なぜですか」
 「旅行中にパスポートの有効期限が切れそうになりました。それで、ニューデリーで更新したんです」
 「旅行の目的はなんですか」
 「お答えしたでしょう」
 「目的は何ですか?」
 「観光です」
 「ただの観光で?」
 「その通りです!」
 「韓国へははじめてですか?」
 「二度目です」
 「前回はいつ?」
 「一九七二年の冬、やはリフェリーで釜山に上陸しました」
 「目的は?」
 「登山です」
 「登山…」
 「雪岳山(ソラクサン)に登りに来たのです」
 「誰と来ましたか」
 「友人とです」
 「英語がうまいですね」
 「うまくはありませんよ」
 「どこで習いましたか?」
 「旅行中に自然に覚えました」
 「日本人は英語が下手ですね」
 「そう思います」
 「…あなたには特別な感じがある」
 「そんなことはない。ただの旅行者です」
 「(パスポートのスタンプを見辛そうにしながら)・・・このスタンプは?」
 「見せて下さい…これはアフガニスタンですね。入国の時のです」
 「テープレコーダーを持っていたんですか?」
 パスポートには、アフガニスタンの税関吏によって「テープレコーダーは持ち出すこと」といったような但し書きが記載されていた。
 「ええ」
 「使用目的は?」
 「音楽を聞くためですよ」
 別の男が意気込んで、しかし緊張気味に口を挟んできた。
 「共産圏には行ったことがありますか?」
 尋問にしては早口だし、口調に威圧感が足りない。こいつは慣れていないなと思いながら答える。
 「いえ、ありません」
 「中国には?」
 「ありません。ところで、なにか問題があるのですか? 質問するのはなぜですか?」
 答はなかった。

(つづく)

マスクの時代

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 亡くなった母親がかなり高齢になった頃、結核に罹って隔離された病棟で何ヶ月か過ごした。結核菌で汚染された隔離病棟の空気を健常者は吸ってはならないから、病院のスタッフや見舞いで訪れる人間は結核菌の通過を防ぐ特別なマスクを装着してから病棟に入る。N95という米国労働安全衛生研究所の規格で作られたマスクで、微粒子を捕集する強力なフィルターを備えている。結核菌の形状は細長い円筒形で直径がだいたい〇・三ないし〇・六μm程度だが、N95の規格に適合したマスクは空気動力学径が約〇・三μm マイクロメートル)の粒子を九十五パーセント以上捕集できる。
 N95マスクを装着する時は後頭部にゴムのバンドを回してマスクの縁を丁寧に顔の曲面に合わせる。すき間があると高性能のフィルターも意味をなさないからだ。内側は口に接触するのではなくていくらか空間が確保されているが、最初はちょっと息苦しい感覚がある。
 マスクを装着してから二重のドアを通って病棟に入り、母親のいる病室に行ってマスクを通したくぐもった声で話しかける。部屋にナースが入ってきて少し話をする時、顔の大半をマスクで隠している彼女が微笑んでいるのが目の表情で確認できる。お互いにそうなのだ。隔離病棟の内部で唯一マスクが要らないのは病院スタッフが詰めている部屋だが、そこは病室に包囲された防疫的な要塞といっていい。
 結核菌が浮遊する病棟の空気は触れてはいけないもの、吸い込んではいけないもので、一種の毒という意識があった。結核病棟の特殊性がN95マスクに象徴されていた。マスクは結核病棟の閉鎖的な空間の中でのみ必要な装備であって外の世界は基本的に清浄である。だがそれもしだいに慣れていくとマスクは日常になり、装着していることすら忘れそうになる。

*  

 阪神淡路大震災から二ヶ月半が経った一九九五年四月のはじめに神戸に行くことになった時、住吉駅の近くで被災した知人に電話したら防塵マスクを持って来るように言われた。その頃の神戸では至るところで建物を取り壊しており、大量の粉塵やアスベストの微細な繊維が大気中を舞っていたから本格的な防塵マスクをして町を歩いている人が少なくないという。半信半疑だったが工業用の一番メッシュの細かい防塵マスクを持って行った。
 神戸を訪れた日、新幹線は大阪までだったのでJRの新快速に乗り換えた。その日は新快速が芦屋まで開通した日だった。芦屋で降りて駅の海側への階段を下りはじめた時、防塵マスクをした人が上がってきた。それがその時点での日常的な光景であったのは間違いない。その後も町では防塵マスクの人をしばしば見かけたが、大多数のひとたちは慣れっこになったのか裸の喉を晒して歩き回っているのだった。
 震災からすでに二ヶ月半が経過しており、町には日常と非日常が共存していた。商店は普段通りに店を開けていたし盛り場は賑わっていたが、一方で鉄道の高架橋は落ちたままだったし、傾いたビルのいくつかはそのままになっていて特に通過が禁止されているわけでもなくて、その脇をひとびとは普段と変りなく歩いていく。
 神戸では被災した知人の何人かに会った。彼らの語る被災の記憶が生々しかったので鳥肌が立つのを感じることもあった。地震を体験した人たちは地震前の自分との間に一線を引き、否応なく地震後の日々を生きていることがわかった。
 印象深い神戸滞在だったが、わたしにとって震災後の神戸との最初の遭遇ではなかった。その一ヶ月半ほど前の二月一五日、広島の平和記念資料館を訪れたその足で神戸に向かった。この時点では新幹線は姫路まででその先は在来線が動いていた。快速の行き先は神戸駅である。車内にはリュックサックを背負った人が少なくなかった。
 明石を過ぎると青い防水シートをかけた家が増えはじめ、須磨付近で線路際に完全に倒壊した家を見た。あたりはずんずん暗くなり、それにつれて風景は傾き、焼き尽くされた家々の残骸が現れる。冷え切った窓に顔を擦りつけるようにして窓の外を見続けた。
 終着の神戸駅は夕刻のラッシュアワーだったが不思議に静かな気がした。人は多く行き交っているのだが、そして皆が沈黙しているわけではないのだが、沈黙の印象があった。しかしその沈黙が重苦しいかと言えばそうではない。投げやりではなく希望に満ちているわけでもない。あるがままの今を受け入れている沈黙とでも言えばいいのだろうか。
 駅前に応急に取り付けられた工事用の大型ライトが行き交う人々を照らしている。ここから先、住吉までの間は鉄道が不通だったが三宮行きのバスが待っていた。それらのバスは震災後に緊急に集められた混成部隊だったから、わたしの乗ったバスにはどこかの建設会社の名前が書かれていた。
 町に滑り出たバスはいくつもの迂回を繰り返しながら三宮を目指した。迷路ゲームのようなルートをバスはたいした渋滞もなく進み、完全に倒壊したビルやそのすぐとなりで何ごともないかのように輝くパチンコ屋の脇を通過する。こんなに暗い神戸を見たことがなかった。夜の六時半なのに深夜の雰囲気だ。そして三宮が近づいて来た。
 三宮の駅前はペシミズムに彩られた未来SFのような光景だった。そごう百貨店は重機で大半をもぎ取られて遺跡のような姿だ。その瓦礫が明るすぎる臨時の照明で照らされている。
 歩道橋を多くの人が黒い影となって列なして歩いていく。立ち止まってあたりの光景を目に焼き付けようとするわたしのすぐ隣を、ふたりの娘が「地震がなかったら…」と言いながら通り過ぎてそのあとは聞き取れない。しかしその言葉には地震を呪うのではなく、地震によって自分が発見したものを喜ぶようなニュアンスがあるように聞こえた。これは戦争で、ここは戦場だと言った方が説明がつきやすい。戦時の日常のようなものがこの都市を支配している。
 三宮からまたバスに乗った。街路灯の消えた国道二号に車の姿はほとんどなくて自衛隊員がところどころに立っている。バスの窓から見える国道北側の六甲へとせり上がっていく町並みは真っ暗で不気味に静まり返っている。
 それ以降、東京を歩いているときに不意に大地震に襲われる瞬間を想像するようになった。神戸を見ていたから自分が立っている街角が大地震によってどのように壊れていくかが生々しく想像できた。

 それから十六年後、あの大地震が起きたときは東京の都心のビルの五階にいた。ゆれは相当な振幅であり、かつ長い時間にわたって揺れた。ビルが倒壊するかと思えるような揺れだったが幸運にも倒れることはなかった。ひどい揺れだったが東京では建物の倒壊も大火災も起きず、都市機能の一部がマヒしただけだった。
 地震の三十分後、電車はすべて止まっていたのでビルを出て家に向かって歩いた。携帯の音声通話はつながらず、メールだけが長い時間をかけてようやく届いていた。二時間ほど歩いて自宅にもどると建物は見たところ壊れていなかったが、台所の食器がかなり落ちて床がガラスの破片だらけになっていた。

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 しかしテレビは東北のひどい状況を伝えはじめていた。その夜から週末の二日間を家にこもって大津波の映像をテレビ越しに見つづけた。テレビには津波によって破壊される市街地の映像が映しだされていた。流れこんでくる海水はそれを防ごうなどとは思いもよらないほどの圧倒的なエネルギーの流れであって、そのなかに巻き込まれた家々は紙でできた模型であるかのように簡単にひしゃげ、折れ曲がり、くちゃくちゃになって画面から外れていった。想像のなかで流されていく人の映像が脳内に滞って行きどころを失ったままになり、無数の断片になって脳内に残留し、固着し、組織に食い込んだ。
 自然の恐ろしさが骨身にしみた。津波の映像は何度見ても慣れることができなかった。将来は伝説となるに違いない天変地異だったにもかかわらず、東京にいたわたしは津波被災地から伸びる長い影の下にいたに過ぎないが、来る日も来る日もテレビで津波の映像を見つづけたわたしはそれらが間接の体験であることによって不確かな傷つきかたをした。刺し傷とヤスリで擦られた傷の違いといってもいい。
 津波のすぐあとで想像もしなかった状況が現れた。
 福島の原発の危機的な状況が伝えられるようになり、その深刻さが次第に明らかになっていったが、原発をめぐる政府の発表もマスメディアの報道も、結局のところなにが起きているかを正確に知らせていなかったために宙ぶらりんな何日かが過ぎていった。
 大津波の被害の様相は次第に明らかになっていったが、原発でなにが起きているのかはいつまで経ってもよくわからないのだった。破滅はすぐそこまで来ているのかもしれず、あるいは破滅の最初のプロセスが始まっているかもしれないのに、ひとびとは原発の危機の本当の姿を知らされることなしに極端に暗くなった町を歩きまわっていた。
 三月十五日、東京では雨が降った。その日は傘を持っていなかったので濡れて帰ったがなんとなく嫌なかんじの雨だった。放射能で汚染された雨に違いないと思った。実際、この日の朝から大量の放射性物質が東京に降り、雨には福島から運ばれてきた放射性微粒子が含まれていたことをずっと後になって知った。
 大変なことが起きかけていることを皮膚感覚が知らせていた。原発の災禍は直接的に東京に及ぶかもしれず、緊張が張りつめていた。町を歩いていてもそこにはきのうの日常はなく、いつ来るかわからない破滅を待つ瞬間が連続して表れていた。
 傷ついた原発は死の表象だ。いつ飛びかかってくるかわからない獰猛な生きものの群れに遠巻きにされていて、その状態で何日も何週間も過ぎていく。だが東京の危機感も不安も結局は抽象的だったので、時間をかけていじったりいろいろな方向から眺めることができた。綱渡り的な状況であってもそれが持続すれば人間はしだいに慣れてゆくものだ。余震に慣れたように原発の危うさにもしだいに慣れ、鈍感になっていった。
 危うい一週間は一ヶ月に、一ヶ月は二ヶ月になって次第にうやむやになっていき、わだかまりを積み上げた日常のようなものが再び姿を現したが、目に見えない不安が心理的な外傷を受けた都市の全体を薄いベールのように包んでいた。そのような心象を多くのひとが共有しているかどうかはわからなかったが、すくなくとも自分自身の意識は三月十一日以前とは違ってしまっていた。行き止まりで自閉的で出口が見つからない。圧迫された肉体の感覚。破綻の上に浮かんでいる借り物の安定という意識が基調になっていた。
 大震災から三ヶ月ほどが経つと東京は日常を取り戻していたが自分の内部の意識は改善されなかった。大津波の間接的な体験と東京の北北東二百キロメートルにある原発群のことがないまぜになっていた。壊れた原発の内部で燃える原子の火は抑え込まれていないだけでなく、悪魔的な威力を行使する瞬間を狙っている。恐ろしい原子の火で電気をつくろうなどという考えが浅はかだったのだ。
 福島の原発群が沈静化して地上から完全に姿を消すまでには恐ろしく手間のかかる面倒な作業の連続の何十年が必要だとマスコミは言っていた。原発は長い時間と多額の費用をかけて宣伝されてきたような安くて安全な存在ではなく、それどころか恐ろしく手を焼かせる厄介者であることがこれほどの惨禍によってようやく示された。
 震災からわずかに時間が経過するうちに奇妙な時期が訪れていることを自覚したが、たぶんそれは歴史が与えてくれた猶予期間だったのだろう。沈潜し自省し、深く降りていって根源に触れ、そして再生するための猶予期間。この時期、日本の社会も国家もまた運命のモラトリアムの中にいた。外部から見れば震災直後の日本は悲劇的であることによって黙示的存在だったのかもしれない。
 だが実際には、あの日以降に執りおこなわれてきたのは新しい世界への方向転換ではなくて旧来の世界を守ることだったようだ。放射性物質の毒を相対的に多量の無害な物質と混ぜ合わせ、希釈によってなかったことにする。時間の流れの中での希釈もまたゆっくりと着実に進められた。時間の流れの中での希釈とは忘れさせることに他ならない。現代ではどれほどひどいことであっても当事者以外はそのことをすみやかに忘れていく、あるいはそのように仕向けられる。傷ついた原発は世間から切り離され、隠され、覆われてよく見えなくなる。
 あれから四年半が経って、東京はなにごともなかったかのようだ。これまでに出会ってきたどの毒よりも強い毒、何千年何万年も吐きつづける毒が日々放出されて空から舞い降り、海に流れ出して大気と海を汚染しながら循環する時代が唐突にはじまって今もつづいているにもかかわらず、そのことに鈍感になっただけで状況は変わっていない。
 放射性微粒子に対して一定の効果があるといわれるN95マスクを装着して町を歩き、都市の日常を生きる。そういうイメージが頭から離れない。そこで結核病棟のことを思い起こすとこれはまるで世界が裏返しになったかのようだ。結核菌が閉じ込められた部屋にマスクをして入っていった昨日は、毒を含んだ空気におおわれた町にマスクをして出て行く今日にとって代わられた。

 毒に怯えるこのような時代はいったいいつ、どのようにして予告されていたのだろうか。極私的な記憶を遡っていくとそのひとつは一九七五年の春のある日の水俣だったかもしれない。
 夕刻に東京駅を離れて東海道を西へ向かい、やがて日が落ちて、しかしまだ熱海かそのあたりを西鹿児島行の寝台特急はやぶさ』は走っていた。
 関門海峡はまだはるかに遠くて、到着までの長い時間はたしかに存在している。その時間を追うのでも追われるのでもなく、いわば列車の速度に合わせて生きるというような、そんな気分が自然に感じられてくる。途端に空腹を感じて席を立ち、車内の通路を延々と歩いて食堂車に行く。四人掛けの席をひとりで占め、ハンバーグか何かを注文し、厨房に行きかけたウェイトレスを呼び止めてビールを一本追加する。
 車窓に自分の顔が映っている。そこから目の焦点を外し、窓ガラスに顔をつけるようにして暗い外の景色を見分けようとする。やがてカチャカチャと食器が触れ合う音がして小柄なウェイトレスが食事を運んでくる。ひとりきりの移動する晩餐の始まり。
 となりでは数人の男たちが騒々しく話しながら酒を飲んでいる。かなりできあがっているようだ。しかしそのグループを除くと他の客たちは静かだ。列車の揺れが心地よい。車窓を流れる家の明かりというものはなんとまあ気分のいいものだろうかと考える。ビールの酔いが回ってくる。
 目的地は水俣だった。わたしは水俣に行き、町はずれに住んで水俣病と患者の取材を続けているひとりの写真家に会うためにこの列車に乗ったのだった。

 写真家と出会ったのはインドのカジュラホという小さな村だった。
 わたしは広大なインド亜大陸をさ迷っている途中で、写真家はナイロビでなにかの賞を授けられた帰りだった。彼はかなりいいホテルに泊まっていたがわたしは安宿の大部屋で、そこにはインドではごく当たり前に見られる木の枠に荒縄を張っただけのベッドが並んでいた。そのデザインは紀元前から変わっていないということだった。
 写真家はその二年前に水俣に取材した『写真報告-水俣・深き淵より』を出版し、またユージン・スミス夫妻、宮本成美氏他と共同で『不知火海・終りなきたたかい』(創樹社)を出版していた。帰国したわたしがなぜ写真家に会おうとしたのか、写真家がなぜ受け入れてくれたのか、今となってはなにも憶えていない。

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 『はやぶさ』が水俣駅に到着したのは午前一〇時かそれくらいだった。駅前に立つと三〇〇メートルほど先にチッソの正門が見えた。先入観のせいか軍事施設のように陰鬱に見えた。
 駅のそばの安宿に入ると、お茶を持ってきた仲居さんが「記者の方ですか」といくらか疎ましいような口調で問いかけてきた。被害者の多くを占める漁民と工場と関わりを持つ町の人々の間にある亀裂が着いて早々に見えた。
 荷物を置くと町に出て、バスで南へ四キロほど行ったところにある月浦に向かった。そこに写真家が住んでいる。小高い斜面の途中にある写真家の家はすぐに分かった。家に上げてもらい、ぼそぼそと話をした。それから写真家はわたしを車に乗せて付近の湯堂や袋の集落に行き、何軒かの民家に立ち寄った。写真家はそれぞれの家の庭先で村人と世間話をしたり縁側に座り込んだりした。わたしは存在を消すように傍らに立っていた。夜になってからふたりで国道沿いの小さな食堂に立ち寄って夕食を食べた。写真家に別れを告げたわたしはバスで暗い国道を走って水俣の町に戻り、翌朝フェリーに乗って御所浦経由で天草に渡った。
 その短い水俣滞在で写真家と一緒に会った人たちのすべてが水俣病の患者であるか家族に患者を抱えていた。彼らは写真家にとって被写体であると同時に共に運動を進めている仲間でもあったが写真家は何も説明しなかった。なにも予備知識を与えることなくいきなり現場を見せた。袋漁港の岸壁に立って水面を見透かそうとしながら、わたしは水銀を呑んだ魚群が狭い水俣湾内に封じ込められたまま泳ぎ回る光景を想像していた。
 水俣チッソの前身となる窒素肥料会社が設立されたのは一九〇八年のことである。 一九五三年になって水俣病第一号患者が発症する。一九五六年には熊本大学水俣病伝染病説を否定し、原因を工場排水と指摘する。一九六三年には熊本大学によって水俣工場排水中から有機水銀が検出される。
 一九六八年、政府は水俣病公害病と正式に認定。一九六九年、チッソに損害賠償を求める一次訴訟。一九七一年から一九八八年にかけて患者被害者勝訴の判決がつづくが、一九九二年には東京地裁が、一九九四年には大阪地裁が、水俣病における国と県の責任を否定する判決を出す。一九九六年、水俣病患者とチッソは政府解決案により和解する。
 こういう流れの中でわたしが水俣に行った一九七五年は一次訴訟で熊本地裁が患者被害者の勝訴判決を出した一九七三年以降、状況が患者被害者の救済に向けて有利に展開していると思われた時期ということになる。
 その後、写真家と連絡をとることはなかった。写真家はインドで出会って一度だけ訪ねてきた男を速やかに忘れてしまったに違いない。しかし彼が突きつけてきた事実は若死にしために老いることのない昔の友だちのようにわたしの中で生きつづけた。

 一九五〇年代の終わりから一九六〇年代の前半にかけての時代、当時のこども向け雑誌に掲載されていた未来の想像図や未来についての科学的予言書は、科学の恩恵を受けて快適な生活が実現する明日を語っていた。こどもたちにとって未来とは確実にやってくる一種のユートピアであり、高度の科学技術によって実現される動輪のない自動車とか透明なチューブに覆われた高速道路とか奇妙に曲線の多いデザインの高層ビルとか、そういうものの集合体だった。今よりも住みやすい清潔な未来は確実にやってくると、新幹線も高速道路も高層ビルもない一九五〇年代に土ぼこりの舞う路地を走るこどもたちは信じていたに違いない。
 だがそれから六十年近くが経過して、かつては未来として語られていた時代に到達してみると、想像していた風景とはずいぶん違っている。物質的には確実に豊かだが確実に貧しく不安な世界。今は一〇年後にはこれだけ幸せに安全になると誰の口からも聞くことができない。清浄と毒とのせめぎ合いがこの世の実相であるのなら、毒が清浄を圧倒しようとしている。
 マスクの中に自閉する未来。清浄な明日はどこへいったのか。

ブログタイトル解題

[rèɪdioʊǽktɪv]は「放射能の(ある)」を意味する英単語radioactiveの発音記号。用例はradioactive rays(放射線)、radioactive contamination(放射能汚染)、radioactive leakage(放射能漏れ)、radioactive aerosol(放射性微粒子)等。この時代に生きる者として感じる極私的なあれこれを、自分の皮膚感覚だけを頼りにして記録しておきたい。